インド “英語偏重”に疑問の声 「私たちの言語で教育を!」

2011年7月26日

“COURRiER JAPON”2011年9月号の中島岳志氏(北海道大学公共政策大学院准教授)の記事が大変興味深いものだったので一部抜粋して下記に掲載させていただきます。

(以下、記事の抜粋)

インドでよく聞かれることがある。私が大学の教員だと知ると「日本の大学では、授業を日本語で行なうのか?」と尋ねられるのだ。「そうですよ」と答えると、インドの人たちは少々驚いた顔をする。

彼らは日本人が母語によって高度な自然科学や社会科学のタームを語ることができるのに驚いているのだ。

インド人エリートは英語を学ぶことで英国流の近代教育にアクセスし、出世の道を探った。当然高等教育はすべて英語。だから、近代科学のタームはそのまま英語で受容した。

一方、日本では福沢諭吉や西周(にしあまね)という明治初期の知識人が、さまざまな西洋近代の概念を日本語に置き換えて理解しようとした。彼らが作り出した翻訳用語は、次第に普及し、いまでは当たり前の日本語として浸透している。明治日本は、あくまでも日本語の体系で高度な近代科学を咀嚼し、表現しようとしたのだ。

「専門教育が英語でしか提供されない環境では、他人のコピーしか作り出せない」・・・・インド政府は科学技術用語委員会およびマイソールにあるインド諸言語中央研究所の国立翻訳プロジェクトの作業を早めることを決定した。

これまでインド人の英語力の高さは、グローバルなビジネス社会でのアドバンテージだと考えられてきた。しかしいま、国内では高等教育の英語偏重への疑問が噴出している。

(以上で記事の抜粋、終わり)

本年(2011年)4月から、日本の公立小学校では英語教育が必修化され、また日本の企業の中にも英語を公用語とする動きが出始めてきました。

小学生からの英語教育必修化を否定するつもりはありませんが、その前にやるべきことがたくさんあるのではないかと感じています。

まず、子供手当てをばら撒くことはやめて、教育の完全無償化を実現させるべきでしょう。“高校や大学の学費無料をめざす”という国際人権規約の条項を承認していないのは、157カ国のうち、日本、ルワンダ、マダガスカルの3カ国だけ。ほとんどの国が、若者がお金の心配なく学べるように努力しています。

幼稚園から大学までの授業料を無償化している先進国は世界に少なくありません。もっともそのためには、学校で勉強を教えるという“しくみ”を早く作らなければいけません。せっかく授業料が無償化されても、“学校で満足な勉強を教える必要はない”という日本社会の“本音と建前”がある以上、結局塾や予備校へ子供達を通わさざるを得ないからです。やはり国の財産である子供達への教育は、“学校で行なうべき”であると私は思います。

さらにもっと教育への国家予算を増やし、良質な教師の数を増やし、一クラスあたりの生徒の数を現在の3分の1程度にまで減らすべきでしょう。そうすれば小学校での英語教育においても大きな効果が期待できます。

資源のない国、日本にとって、人材だけが唯一国家の財産なのですから、福祉、医療、インフラ整備、防衛も大事ですが、教育への先行投資はもっと重要だと私は感じます。