技術翻訳プロフェッショナル講座 「翻訳の真髄」
3 | マイクロプロセッサ・ユニットの取扱説明書 |
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原文を読んで、その作者の言わんとしているところをまずつかむ、これが適訳の第一歩です。こういうことを考えながら、次のような文章の訳に取り組んでいきましょう。 【問 題】 次の和文を英訳してください。 動作フロー この項では、NC7771/72/73/74のMPUの動作フローを説明する。図4.1はMPUの動作フローチャートである。MPUの1命令サイクルは、五つのタイムステート(S1~S5)を持っている。 S3は、フェッチすべき命令またはオペランドのアクセスアドレスを送出する。MPUがそれを取り込むのはS1のステートである。S2の時間の間にデコードし、各種制御信号を生成する。同時にレジスタへアクセスするためのRAM実効アドレスを生成し、RAMアドレスレジスタにセットする。プログラムカウンタもこのステート中にインクリメントされ、S3にてセットされる。演算は、さきに作られた各種制御信号、RAM読み出しデータ等によりS3、S4、S5の期間に行われる。すなわち、S3~S5は次の命令サイクルにオーバーラップしている。 【解説】 まずQ(クイズ)から始めましょう。 【Q1】 What does MPU stand for? 【Q2】 ( )を適語で埋めてください。 Flowchart の日本語訳は( ? )であり、その定義は英語で書けば、 a ( ? ) description of the steps needed in ( ? ) a problem. です。 【Q3】 ( )を適語で埋めてください。 1命令サイクルは(命令が1語の場合)( ? )サイクルと( ? )サイクルよりなる。(1語は4バイトからなるのが普通で、1バイトは8ビットからなります。これでいくと、1語は32ビットからなるわけですが、これは一つの約束ごとであって、たとえば、 a four-bit word =4ビットの語、a 12-bit word =12ビットの語という表現も理論上は可能です)。 【Q4】 ( )を適語で埋めてください。 オペランドはもともと演算される数のこと。たとえば、A+Bという演算ではAは第1オペランド、Bは第2オペランドと呼ばれる。つまり命令コードによって用いられるアドレスや数値などの命令から見て( )となるもので、アドレス部のこと(以上、矢田光治著『マイクロコンピュータ用語辞典』日刊工業新聞社刊)(命令は命令部とアドレス部からなる)。 【Q5】 What does RAM stand for? ――― Q(クイズ)の答えはこの項の最後にまとめて記載します。 さて、クイズはこれくらいにして、本来の翻訳にとりかかりましょう。上記のクイズに答えるために問題文をいくらか読んでいただいたことと思いますが、もう一度一緒に少しずつ読んでいきましょう。 ・この項では、~を説明する: このような表現は取扱説明書などにはよく現れます。 In this item, ~ is explained. という構文が頭に浮かんだ方はいませんか? (In this section, ~ is described. と考えた人もほぼ同じ)。日本人としては、ごく自然な表現ですが、こう考えた人は5段階評価で3か2でしょう。なぜなら、英語国民の書いた manual ではそういう表現はあまり見かけませんから。こういう文章を訳すときのコツとして、副詞句を見たら、これを名詞一語で表現できないかと考えてみることです。この場合は、 This section describes ~ . と表現できますし、また多くの English manuals の中で類似の表現を見受けます(ただし、いつもそうであるとは限りません)。説明の対象となっている装置についてのNC7771/72/73/74という表し方、すなわち"/(slash)"の意味も考えなければなりません。ここではMPUがNC7771, NC7772, NC7773, NC7774というモデル番号で4装置あることを意味していると解釈すべきでしょう。従って、第一文の訳は次のようになります。This section describes the flow of operation of the NC7771, NC7772, NC7773 and NC7774 microprocessor units. ・図4.1はMPUの動作フローチャートである: これを直訳して、Fig.4.1 is the flowchart of the MPU operation. またはFig.4.1 shows the MPU operational flowchart. としてもさほど悪くありません。5段階評価で3くらいでしょう。Figureとchartはほとんど同じ意味であり、区別は習慣的な使い方の相違によるわけですから、ここでは同語反復を避けて The flow is shown in Fig. 4.1. でよいでしょう。(The flow は直前の文章の中の「その流れ」を意味しますから、この場合はあえてflowchartという語を使う必要はありません)。 ・MPUの1命令サイクルは、五つのタイムステートを持っている: これを訳すのはやさしいと思います。ただし、次のことを考えておく必要があるでしょう。すなわち、彼我の表現方法の違いです。例えば、兄弟の数を尋ねるときに、日本語では「ある(=存在)」という動詞を使うのが多いのに、英語では持つという動詞を使います。 直訳すると、One instruction cycle of the MPU has five time states (S1 to S5). となります。これも悪い訳文ではありませんが、直前の文章で動作のフローチャートを参照するように言われたばかりです。読者は通常この図4.1に目をやるでしょう。そこで In each instruction cycle there are five time states S1 to S5. と書くのもごく自然であろうと思います。どちらにしても意味に変わりはありませんが、後者が英語として少し流れがよいかなと感じられます。 ・S3は、フェッチすべき命令またはオペランドのアクセスアドレスを送出する: ここの「S3は」の「は」はいわゆる主語の「は」ではないことは誰の目にも明らかでしょう。にもかかわらず、これを主語の「は」にとって訳したら、どうなるでしょうか?S3 transmits the access address of the instruction or operand to be fetched. となります。この訳文で一見よさそうですが、よく考えるとおかしなことになります。S3というのは時間、すなわち副詞です。副詞は主語になり得ません。文法的な間違いを犯している文章ということになります。従って、正しくは In time state S3, the access address of the instruction or operand to be fetched is sent. となります。 ・MPUがそれを取り込むのはS1のステートである: 「技術翻訳の場合、語学の知識と技術の知識が必要です」と冒頭で述べましたが、これがその良い例であろうと思います。「それ」をどう読み取るかが問題であるからです。「いや、そんなことは問題ではない。"it" と訳してどこが悪いのか」とおっしゃる方もいるかもしれません。そう思う方は例えば、 The MPU reads it in time state S1. と訳すでしょう。たまたま、ここでは it は直前の単数名詞を受けて少しも不都合ではありませんが、筆者はできるだけ指示代名詞を使わないで、その指示している名詞そのものを書くことを薦めます(誰の目にもはっきりわかる場合はもちろん指示代名詞を使う方が逆に論旨がはっきりする場合があります)。 The MPU reads this instruction or operand in time state S1. というようにです。この「それ」を解釈するときに技術の知識を持っている、ここではMPU (or CPU) の動作のあらましを知っていると、「それ」が何を指しているかよく分かります。 ・S2の時間の間にデコードし、各種制御信号を生成する: 直訳族はここにいたっていよいよ困るのではありませんか?直前の文章と内容的に続いているので、主語はMPUであるとわかったとしても、decode(「解読する」という他動詞)の目的語が書かれていないからです。「分からないときには it と書いておけばよいではないか」という安易な翻訳態度ではいけません。もっともここでは、たまたま it でよいのです。なぜならそれは直前の The MPU reads this instruction or operand in time state S1. という文章中の単数名詞 instruction を受けるからです。この意味からも前項で The MPU reads it in time state S1. と訳すのはよくないことになります。ここの訳文は、前項と続けて書いておきます。 The MPU reads this instruction in time state S1, and decodes it and generates various control signals in S2. ここで、原文の執筆側にある方々に、この機会を利用してお願いをしておきます。簡単なことです。文章を書いたら必ず、他人にその意味が容易に伝わる形になっているかを調べるために、読み直してください。「文脈上推定可能なときには、主語は省略されることが多い」というのは日本語の特徴のひとつであることはわかります。しかし、他動詞を使っていて目的語を省略するというのはよくありません。 ・同時にレジスタへアクセスするための、RAM実効アドレスを生成し、RAMアドレスレジスタにセットする: 「同時に」というのは simultaneously とか at the same time とか訳されることが多いのですが、ここでは、意味を考えて、 also in S2と訳すほうがbetter でしょう。先ほども触れたとおりSi ( i=1~5 )というのは time interval のことです。しかも、非常に短い時間間隔であって、人間にはほとんど同時といってもよいくらいの時間ですから。 「実効アドレス」の意味は少し専門的になりますが、こうです。 各 instruction(正確には operation part)の処理対象となる address part(または operand part)は各種のaddress modification を受けますが、この番地を修飾した後、最後に処理(演算)対象となるアドレスのことを意味します。英訳はeffective addressです。 RAM (random access memory) と呼ばれる“石”はmicroprocessorの記憶装置です。勝手な順序で(at randomに)、どこの場所(locationとかaddressとか訳される)でも呼び出し(すなわちaccessし)て、そこの内容を読んだり、そこへ書き込んだりできる記憶装置(memory)という意味です。 さて、ここでこの文章全体の訳を示します。 Also in S2, it generates an effective RAM address and sets it in the RAM address register, for later register access. 【Q6】 下記はレジスタの定義について書かれた文章です。 ( )を適語で埋めてください。 REGISTER ―A device capable of ( ) a specified amount of data such as one word. (レジスタ ― ある指定された量のデータ、例えば1語を格納可能な装置) ・プログラムカウンタもこのステート中にインクリメントされ、S3にてセットされる。: The program counter is also incremented in S2 and set in S3. これでほとんど不都合はありませんが、一つだけalsoという副詞の位置が間違っています。このままですと他にインクリメント(数が増加)される装置があるような意味にとられ、原文の意味とは相違します。also をincremented の後にもってくれば正しい訳文になります。The program counter is incremented also in S2 and set in S3. とすればよいでしょう。 ・演算は、さきに作られた各種制御信号、RAM読み出しデータ等によりS3、S4、S5の期間に行われる。すなわち、S3~S5は次の命令サイクルにオーバーラップしている。: 「演算」はoperationでよいでしょう。『コンピュータ用語辞典』(富士書房刊)によりますと、この語は加算や乗算などを意味する他に、広義にはlogical operationやshiftなども含む意味があります。でも、はっきりArithmetic and logical operationsと書いた方がよいでしょう。 ここでまとめた訳文を示します。皆さんの訳文と比べてみてください。 【訳文】 Operation Flow This section describes the flow of operation of the NC7771, NC7772, NC7773 and NC7774 microprocessor units. The flow is shown in Fig. 4.1. In each instruction cycle there are five time states S1 to S5. In time state S3, the access address of the instruction or operand to be fetched is sent. The microprocessor unit reads this instruction or operand in time state S1, and decodes it and generates various control signals in S2. Also in S2, it generates an effective RAM address and sets it in the RAM address register, for later register access. The program counter is incremented also in S2 and set in S3. Arithmetic and logical operations are carried out in time states S3, S4 and S5 according to the control signals generated earlier, data read from the RAM, and so on. These last three time states overlap the next instruction cycle. 【Qの答え】 1. Microprocessor unit 2. ? 流れ図 ? graphic ? solving 3. ? 命令取り出し ? 命令実行 4. 操作の対象 5. Random-access memory 6. storing |