第83回 義肢や装具について
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<質問>
本螺先生、こんにちは。お膝の具合は、いかがですか? 実は、少し前に足を捻ってしまい、私も膝を痛めてしまいました。少々びっこを引く程度で済んだのですが、慣れた近所も、意外と歩き辛いんですよね。ましてや、通勤途中の人混みや道の凸凹(デコボコ)、ちょっとした傾きに段差。私くらいでも不便なのですから、もっと足の悪い人にとっては、どのくらい大変なのでしょう。改めて、色々と考える機会になりました。
実際、今まで気にもとめなかった、松葉杖や車椅子の方が目に入ります。まだ私の気が付かないだけで、義手や義足の人とも、すれ違っているのかもしれません。
試しに、私も杖を借りてみたのですが、不器用すぎて、足を絡ませて転びそうになりました。しっかり練習しないと、かえって危ないですね。すぐに治ると思うし、私は、痛い足を庇(かば)いながら、そろそろ歩くので充分です。
少し前に、パラリンピックを応援しましたが、ケガする前の私なんかより、義足の選手たちの方が、よほど自由に動けていますよね。もちろん、血の滲(にじ)むような努力の賜物(たまもの)でしょうけど、身体を補う器具を使って自在に動くのを見ると、それこそ血の通う手足を見るような不思議な気分になります。
本螺先生、もちろん選手たちの特殊な義手や義足は格別に凄いでしょうけど、普通の(?)障害者が使える最近の義手や義足は、どのような感じでしょうか?(神奈川県
S.H.)
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<回答> S.H.さん、ご無理なさらないで下さいね。足を庇いながらバランスを崩すと、膝どころか、思わぬところを怪我しますからね。
1年ちょい前に、やらかしてしまい、ご心配いただいた私の膝の皿ですが、何とか無事にくっつきました。折れた骨を固定していたワイヤーとピンを抜くための再手術、「抜釘(ばってい)手術」も終えました。リハビリも進んで、何とか、杖を外して歩けるところまで、快復しております(目下、練習中)。
最後の通院日に、病院から画像データをいただいたので(医療訴訟を起こすつもりなのかと疑われましたが・苦笑)、個人情報が伝わらない程度に、経過をご報告しておきます(図1)。
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| 図1.膝蓋骨骨折の経過 |
●左上図”0 day”は、骨折当日のCT(computed tomography)検査で作成した3DCG(three-dimensional computer graphics, 三次元画像)と、レントゲン((独)Röntgen)像。
●以降”1w ~ 38w”は、手術後の週数におけるレントゲン像。
●赤矢印の先が骨折部。
●割れて砕けた膝蓋骨から(0 day)、小骨片を取り除き、硬質のピンとワイヤーで寄せて固めた(1w ~)。
●ハッキリした横向きの亀裂(黒い裂け目, ~ 2w)が、少しずつ軟骨(cartilage)/仮骨(callus)で埋められ(仄白(ほのしろ)いモヤ, 7w ~ 19w)、癒合(ゆごう)した骨が繊維化(せんいか)している(28w ~ 38w)。 |
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実は、術後38週(10か月弱)で、抜釘手術の許可が出ました。もう固まったから、抜けるよ、と。ちょうど年末に重なって、会社も冬休みだし良いタイミングかな、と思ったのですが、担当の整形外科医に「ただ、命に係わる手術ではないので、できれば後回しにしてもよいですか?」と頼まれました。なんと、年末年始は病院の繁忙期だそうで……(苦笑)。まぁ、渋々了解、結局、年明けから1か月ほどしての手術になりました。
とはいえ、手術後すぐに元通りとはいきません。今は、杖をついてのリハビリに数か月を加えて、ようやく杖を外して歩き始めたところです。手術痕(しゅじゅつこん)、いわゆる「骨や軟部組織と皮下組織の癒着(ゆちゃく)」をほぐしながら、膝関節の可動域を広げつつ、痩せた太ももの筋肉を付けるという、なかなかの難題です(まぁまぁ痛いんですよ)。消炎鎮痛剤の助けを借りつつ、乗り切るつもりです。
杖をついて歩くコツ
S.H.さんは無理して使うこともないかと思いますが、松葉杖や、歩行を補助する目的で使う杖には、使いかたにコツ(※)があります。
※漢字表記では「骨」。骨は身体の芯であることから、物事(ものごと)の要領(ようりょう)や神髄(しんずい)の意に転じた。
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簡単に説明してみましょう。基本的に、杖は「痛くない足(健足)側の手」で持ち、足先の少し前につきます。このとき、脇の力が抜けた状態で、肘と手首の位置が楽な杖が、体型に合っていると考えて良いでしょう。目安は、持ったときに手首から下の杖の長さが「身長の半分に足して数cm」といったところ。
では、痛い足(患足)と痛くない足、両足を揃(そろ)えて立ったところから始めますね。まずは、3動作歩行から(図2)。
| 1) |
健足で身体を支えて、杖を前に出す。 |
| 2) |
杖と健足に体重を分散して、患足を前に出す。 |
| 3) |
杖に体重をかけて、健足を患足に揃(そろ)える。 |
| 4) |
1に戻る。 |
これに慣れてくると、1と2の動作を同時に行えるようになります。2動作歩行です。
| 1) |
健足で身体を支えて、杖と患足を前に出す。 |
| 2) |
杖に体重をかけて、健足を患足に揃える。 |
| 3) |
1に戻る。 |
私の場合ですが、3動作歩行を始めたすぐは、杖に体重をかけたとき、身体が揺れずに安定するよう意識して、ゆっくりと動きました。最初の内は、意識して歩幅も狭くしましたよ。重心が身体の外に出ると倒れやすいですからね。
慣れてくると、体重(≒重心)移動もスムーズ(smooth)になり、楽に動けるようになります。私の場合は、杖の取り回し(手首/肘/肩の動かし方)を身体が覚える頃には、自然と2動作歩行になりましたよ。その内、患足の具合(痛さ/回復の程度)に応じて、杖にかかる体重を少しずつ減らし、患足に加重していきました。ある程度の刺激は、骨の再生を促しますからね。
そういえば、S.H.さんがおっしゃるように、私も自分の身を通じて、「いかに街中が微妙に歩きにくいか」を実感しました。今まで平らと思っていた道が、実は、前後左右に傾いていたり、凹凸(おうとつ, bumpy)や段差(step)があったり、あるいは滑りやすかったり(slippery)、逆に引っかかったり(high frictional)。この1年でヒヤリとしたことが、何度あったことか。
階段の昇り降りには、別のコツが
個人的に一番つらかったのは、やはり階段ですね。実は、階段や急な坂道は、歩くときとは違うコツがあります。そもそも、昇(のぼ)りと降(くだ)りで、身体の使い方が少し違うのです。まず、昇るときは、慣れる前から2動作です。
| 1) |
杖に体重をかけて、健足を上段(坂の上側)に上げる。 |
| 2) |
健足で身体ごと持ち上げ、杖と患足を上段の健足に揃える。 |
| 3) |
1に戻る。 |
そして、降るときは、身体の使い方(動かす順序)が逆で、かつ、3動作になります。
| 1) |
健足で身体を支えて、杖を下段(坂の下側)につく。 |
| 2) |
患足を下段(坂の下側)に下(おろ)す。 |
| 3) |
杖に体重をかけて、健足を下段の患足に揃える。 |
| 4) |
1に戻る。 |
私は、リハビリの先生に「階段はね、『行きはよいよい、帰りはこわい♪(※)』で覚えるといいですよ」と教わりました。「行き(=昇り)」は「よい(良い=健足)」を先に動かします。そして、「帰り(=降り)」は「こわい(怖い=患足)」を先に動かす、と言う意味です。
※江戸時代に成立したとされる童謡(わらべうた)「通(とう)りゃんせ」の歌詞の一部。
通りゃんせ 通りゃんせ
ここはどこの 細道じゃ
天神さまの 細道じゃ
ちっと通して 下しゃんせ
御用のないもの 通しゃせぬ
この子の七つの お祝いに
お札を納めに まいります
行きはよいよい 帰りはこわい
こわいながらも
通りゃんせ 通りゃんせ
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実際のところ脚が悪いと、階段も坂道も、降りが怖いです。というのも「杖をつく」動作は、前かがみになり、重心が前方に移ります。昇るときは、進行方向に重心が移りますから、身体を支える脚の力で移動しますよね。でも、降るときに身体を前方に傾けると、身体の支えから重心が外れて転げ落ちてしまいます。スキー(skiing)やスノボ(スノーボード, snowboard)なら、それによって雪の坂道を滑空(かっくう, Gliding)するのですけどね。
改めて、足を怪我する前を思い返せば、降るときには、身体を反(そ)らして、重心を後方(上段)に残しながら、足を下ろしていたはずです。それが、杖をつくには、どうしても前方に重心を動かさないといけないのです。上記した、降るときの 1)と 2)では明記しませんでしたが、「健足の支え」は、膝や足首を曲げることで、重心を上段に残しながら、身体全体を降ろしているはずです。
杖のつく位置、健足の膝や足首を動かす力加減とタイミング、患足を下ろす位置。言語化するには、少し難しい動きですね。私は、病院でリハビリの先生に付いてもらいながら、けっこう練習しました。ただ、杖を外した今も、階段の下りは緊張します。まだ萎(な)えた脚の筋肉が戻っていませんし、そもそも、怪我の原因が階段からの落下でしたしね(苦笑)。また転んで怪我しないように、注意しながら降りています。もちろん、エレベーターやエスカレーターがあるときは、そちらを利用しています。
義肢・装具の歴史と現代
不幸中の幸い、私の脚は回復したわけですが、世の中には、様々な事情で回復に至らない方もおられます。それこそ紀元前の昔から、不自由な四肢を補う目的で、様々な義手(artificial hand/arm)や義足(artificial/prosthetic leg)が作られてきました。とはいえ、古代においては、恵まれた権力者の特権に近いものではあったでしょうが。
そもそも、自然界に、脚を悪くして引きずる動物はいても、杖をついたり、義肢(artificial limb/prosthesis)や装具(prosthesis, (注1))を身につけたりするのは、ヒトだけですよね。もちろん、現在、自然保護の一環で、傷ついた野生動物に、人工的な補助器具を装着する試みはありますが、野生動物が、自ら装具を開発することはありません。
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| (注1) |
装具(そうぐ):
日本産業規格(Japanese Industrial Standards /略語:JIS)の定義では「四肢・体幹の機能障害の軽減を目的として体表に装着して、機能を補助する器具」のこと。骨折/手術/炎症した関節部位などの固定ないし運動制限によって、患部を保護するには、ギプス(ドイツ語:gips /英語:cast)/コルセット(corset)/サポーター(supporter)/ベルト(belt)を使用し、上肢/下肢に装着して、運動や作業を補助する義手/義足は、義眼(artificial eye/ocular prosthesis)なども含めて外観の復元にも用いられる。日本語では、軍隊などで衣服以外に身につける備品(outfit)、あるいは、乗馬の際に、馬に着ける器具(harness)などにも使う言葉である。 |
古くからの伝承や文献に義肢の記録は見られますが、大きく発達した時代は、中世ヨーロッパかもしれません。というのも、戦争で手足を失う騎士/軍人が増加し、負傷した職業軍人に、求められたからです。QOL(Quality of Life、日常における生活の質)の問題ではありません。当時における義肢の記録は、医学書と言うより、「それでも雄々しく戦った」という武勇伝や戯曲の類(たぐ)いです。
その戦争も、近代になると、さらに被害が激化します。火薬/爆薬が開発されて、銃/大砲/地雷が普及し、手足を失う傷痍軍人(しょういぐんじん, disabled veterans)が増えたのです。そこに、航空機や戦車など、兵器としての乗り物の発達が、義肢を装着しても戦える、傷痍軍人の復帰を後押ししたようです。
こうした「戦争と四肢の機能障害」についての話は、現代においては、変わりつつあります。悲しいかな、傷痍軍人だけではなく、一般市民の犠牲者も多いからです。とはいえ、戦争の犠牲者に向き合うことで、医療が進んだ事実も否定できません。
戦場から離れた、平和な私たちの日常にも、いつ何時、何が待ち受けているか分かりません。それが天災や事故です。特に、日本は震災の多い国です。私自身、実は、子供のころから、大きな震災や交通事故を何度か経験していて、その時は幸いにも骨折や後遺症を経験せずに済んだものの、その怖さは身に染みて知っています。ただ、今回のこともありますから、今後は、自身の老化も考慮して、さらに慎重にならなければ……。
閑話休題。暗い歴史は、これくらいにしましょう。現代の科学技術の進歩は、より優れた義肢や装具を生み出しています。例えば、筋電義手(myoelectric hand prosthesis)は、ご存知でしょうか。装着した肌から、筋肉に発生する電位を検出して、それを信号にしてマイクロコンピューター(microcomputer)で操作できる義肢です。今や物をつまむだけでなく、実際の手に近い持ち方のできる義手や、路上の状態および装着者の歩行速度を検知して、最適な姿勢に制御できる義足、また、装着した肌に触覚を伝える義肢もあるそうです。防水加工も進んで、水の中でも使える、水泳選手用の義肢もあるのだとか。こうした、失った機能を機械的に代替する技術が、次々と開発されています。ただし、丈夫で高機能となると、どうしても重たくなってしまいます。また、身体の成長に合わせて作り直す手間も必要ですし、総じて大変高価です。もちろん、上手く使えるようになるまでには、訓練が必要不可欠です。こうして考えると、やはり元の身体が、いかに良くできているのか、実感しますね。
S.H.さんもご覧になったパラリンピックでも、様々な義肢や装具を身につけた競技者が活躍していました。陸上競技や球技、個人/団体を問わず、各種目とも見ごたえたっぷり、応援し甲斐がありましたよね。
現在、スポーツ用の義肢は、素材が大変良くなっているのだそうです。特に、陸上選手用の義足は、反発力に優れた板バネ状だったりして、それこそ健常者に迫る記録が生まれ始めています。むしろ、今後は通常の身体より良い記録のでる可能性を考える必要があるかもしれません。
現代は、ただ支えるだけでなく、あるいは動作の補助を超えた機能性の向上、さらには装着の快適さや自分らしさの表現をデザイン(design)した義肢や装具が開発される時代になってきました。
想像の翼を広げるしかないのですが、パラリンピックで活躍する選手たちを応援するときの感動が、いつものスポーツを観るときと、少し違うところがあるとすれば、私の考えでは、こうです。
普段から凄いスポーツ選手を観るときは、「自分では絶対できないながらも、想像可能な、素晴らしいパフォーマンス(performance)」に感動していると思うのです。それが、障害者スポーツでは、「もし自分だったなら、どう動けば良いかすら分からない、想像を超えた世界」を垣間(かいま)見ていることに、心が揺(ゆ)さぶられているのではないでしょうか。
そもそも、ヒトにとって道具とは?
実は、私が脚を悪くして得た、一番大きな経験は、杖という道具を使うときの「身体感覚(※)の延長/拡張」です。元々、知識として学んでいたことではあったのですけど、とても面白い体験でした。
※以下、感覚/意識という言葉を使いますが、今回のコラムでは、厳密に定義しません。
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俗に、幾つかある、動物とヒトの違いの1つとして「道具を作り、使うこと」が挙げられます。とはいえ、虫の巣穴に木の枝を差し込み、餌(えさ)を捕獲する野生動物などの話を聞いたことのある読者もおられるかもしれません。しかしながら、このような「あるがままの何か」を使う、ある意味で素朴な道具とは違い、ヒトの使う道具には、明確に「感覚の延長/拡張」が目的となることがあります。と言いますか、「ヒトにとっての道具/ヒトと道具の関係」を考察すると、なかなか興味深いです。
おっと、私の悪い癖が!
あまり話を膨(ふく)らませ過ぎると、収拾がつかなくなるので、主語を小さくしますね。とりあえず、話を杖に絞りましょう。
おそらく、文字や文化も未発達な太古の昔から、人類は杖を使っていました。元々は、土を掘り返す、初期の農具だったのでは?と考えられています。意匠(いしょう, design /デザイン)によっては、神話の神々や神仏に仕える宗教者が携(たずさ)え、王の眠る古代遺跡からも発掘される、世俗の権威の象徴でもありました。
道具の歴史としては、障害者のみならず、登山や長距離を移動する健常者の歩行を補助しましたし、さらには、視覚障害者の目の代わりともなりました。現代でいう「白杖(white cane)」ですよね。その白杖、ただの棒である杖が、地面についたときの音が耳に、振動/感触が掌(てのひら)に伝わって、自身の進む、次の一歩の環境を把握できるなんて、改めて凄いと思いませんか?
このとき、視覚障害者の脳裏には、さも、自らの足裏の感覚が杖の先に延長したかの如(ごと)く感じているはずです。
私も、今回の怪我で、杖をついて歩く過程で、慣れて、ぎこちなさが薄れるとともに、地面の状態を杖の先に感じるようになりました。不思議なことに、このとき、掌の意識は消えています。よくよく思い返せば、普段から、靴を履いて、足の裏の感覚は意識しませんよね。感じているのは、靴裏に接する地面の状態。その微妙な傾きや凹凸、摩擦(まさつ)に応じて、足首/膝/股関節/腰が無意識に連動し、姿勢を制御しているのです。
私の場合は片足が、辛うじて支えることはできても、いつもの無意識な連動には使えない状態です。代わりに、ついた杖から伝わる情報が、掌/肘/肩を伝(つた)っての姿勢制御となります。慣れるまでの、ぎこちなさは、言わば「意識せざるを得ない、新たな身体の使い方」に対して、「無意識的に」戸惑(とまど)っている状態で、この過程を「無意識にできる」ようになるまでが、練習期間だったのでしょう。
偶々(たまたま)、私には、そうした知識があったので、始めの内は、努(つと)めて、掌/肘/肩の感覚に集中していました。逆説的に聞こえるかもしれませんが、あえて「掌/肘/肩の感覚」に集中すると、自然と杖の先に「意識が伸びる/届く」のです。このとき、集中していたはずの「掌/肘/肩の感覚」は、意識の上では消えます。不思議なものです。そして、上手く「意識が伸びる/届く」と、動きがスムーズになり、何より、その過程が気持ち良いし、楽しいのです。
おそらく、スポーツでも同じでしょう。私は、運動/スポーツが得意ではないので、あくまで想像ですけど、球技で上手くプレイできるときが、そうではないかと思います。野球ならバット、テニスならラケット、ゴルフならクラブに「意識が伸びた/届いた」とき、上手くボールを打てるのでしょう。さらに習熟すると、打ったボールにまで「意識が伸びて/届いて」、ボールの行先が見えるように感じる選手もいるのだとか。バレーボールやバスケットボールの選手なら手で操作したボール、サッカー選手なら蹴ったボールに「意識が伸びる/届く」のかもしれません。
ここに、ヒトが道具を使うようになった理由があると思います。つまり、道具を通じて、自身の感覚を延長し、意識を広げることが心地よいのです。
身体と感覚/運動の関係
逆に、事故や怪我などで、四肢を欠損(けっそん)することは、単に不自由になるというだけではありません。また、欠損に至らずとも、脊椎(せきつい, spine/spinal column /backbone)の障害や脳梗塞などによる感覚神経/運動神経の損傷(そんしょう)では、身体や手足を感じなくなり、動かせなくなります。機械で言えば、電気の流れる配線が切れるイメージでしょうか。ところが機械と違って、そうした患者の多くに、不思議な現象が生じます。
幻肢感覚(げんしかんかく, phantom limb awareness / phantom sensation)、あるいは幻肢痛(げんしつう, phantom limb pain)です。欠損したはずの身体に感覚が残っている、あるいは痛みを感じるというのです。どういうことでしょうか。
少しだけ、専門的な話になるのですが、感覚や運動といった身体の機能は、大脳新皮質の上で、まるで地図のように配置されていることが知られています。「機能局在」と言いますが、脳の機能と神経細胞の空間的な位置には、特定の関係があるのです。さらに、脳内で、個々の情報は統合され、全体として機能していると考えられています。体性感覚や運動を支配する神経についても同様です(図3)。
皮膚の触覚や温感/冷感のみならず、身体の内側の感覚から、イメージされる身体の全体像を感知すること。さらに手足や身体を動かすと一言で言っても、それを実現するには、細かな筋肉の一つ一つが、協調して伸び縮みしています。部分を細かく見ていって、細胞レベルになれば、「感覚」では神経細胞が刺激を電気信号に変え、「運動」では筋細胞が収縮して力学的に働いていますから、それぞれの機能は機械的に理解できます。ですが、それらが組み合わさって複雑さを増した、私たちの身体の滑らかな活動は、明らかに機械とは違います。たとえば、某夢の国で動くネズミさんの着ぐるみの中が、人間か機械かは、見れば、たぶん分かるはずです(中の人などいない!という話は置いて下さい)。ヒトの動きの過程における特異な複雑さについては、未だに解明の進んでいないところがあります。
幻肢の正体と感覚の延長
ざっくり言うと、末梢の、機械的に機能する部分(筋肉/神経)が運動や感覚の全体として統合されるまでに、ある種の機能としての層(layer)が、解剖学的/生理学的に積み重なっているのです。もちろん、その一番上の司令塔は、大脳新皮質です。仮に、怪我などで神経や血管のような機械的な配線が切れたとしても、司令塔たる大脳新皮質では、切れた末梢の配線を無視して、身体感覚や運動の全体像を形作ります。脳内における身体感覚の全体像。それが幻肢だろうと考えられます。また、その全体像と、実際(配線が切れたことによる、戻って来るはずの信号の不在)との差が、痛覚となって感じられるのが幻肢痛なのかもしれません。この辺りの研究は進んでいるのですが、未だ完全には解明されておらず、臨床的にも、患者さんの痛みを癒(いや)すために、試行錯誤が続いています。
理解の参考として紹介したいのが、「印象派の巨匠」、画家ルノワールです(注2)。実は彼、名声を得た後年、関節リウマチ(注3)の発症によって、筆を持てなくなったのです。何とか車椅子に座れるまでに回復したルノワールは、介護者に、こう訴(うった)えました。
「歩くよりも、絵が描きたい!」
時を超える作品を残すだけはある、芸術家の業(ごう/カルマ, ※)を感じます。
※ここでは仏教用語の「業(ごう)」。サンスクリット語(梵語)での「カルマ(karma, 行為)」を漢訳した語。前世あるいは現世における行為が後世ないし現世の結果に与える報い。因果応報の意。転じて、理性を超えた、どうしようもない心の動き。多義語の漢字であり、「わざ/なり/ぎょう」とも読み、「行い/仕事/職/学問/技芸」と広い意味を持つ。
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| (注2) |
ピエール=オーギュスト・ルノワール(Pierre-Auguste Renoir 1841~1919年):
軽やかで明るい風景画と温かい色調で描く女性の裸体画が有名。代表作は「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会」「舟遊びをする人々の昼食」。
フランス中南部の貧しい仕立屋の息子として生まれ、磁器の絵付け職人見習いとして就職するも、産業革命による機械化が流行ることで失職。苦労して画家となり、後の「印象派(いんしょうは,
Impressionism)」の仲間と出会う。仲間はブルジョワジー(フランス語:bourgeoisie, 有産階級/都市の裕福な商人)出身がほとんどで、労働者階級出身はルノワール1人だった。当初は人気の無かった印象派が認められるようになったのは、1879年のルノワールによる公式美術展覧会(サロン(フランス語:Salon
de Paris))での成功が切掛けである。名声と社会的評価を得て、公私ともに充実していた1897年、自転車で転げて右腕を骨折、これが原因で関節リウマチを発症した。
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| (注3) |
関節リウマチ(rheumatoid arthritis:RA):
以前は「慢性関節リウマチ」と呼ばれていたが、“rheumatoid arthritis”に「慢性」の意味は含まれず、「急性」の病態もあることから、2002年に日本リウマチ学会が「関節リウマチ」に改訂、厚労省も2006年から名称変更した。
自己免疫疾患(じこめんえきしっかん, Autoimmune disease)の一種。体内における異物を除去するために働く免疫が、関節を包む膜(関節包(かんせつほう))の内膜(滑膜(かつまく))を攻撃して炎症を起こし、関節痛/変形を起こす疾患。全身性の症状(貧血/微熱/倦怠感など)を合併することがある。発症のメカニズムは未解明。女性に多い(患者数は男性の4倍)。
症状の進行により、炎症により増殖した滑膜が、サイトカイン(cytokine, ※)を分泌して、破骨細胞(osteoclast, 本コラム第71回参照)を増殖させ、関節で骨を破壊して、変形/融合させてしまう。近年は薬物での治療が中心になった。
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リウマチが酷くなると関節が変形して固まってしまい、筆を持つどころではありません。そこで、ルノワールは、介護者に頼んで、自身の腕に筆を縛り付けて、キャンバスに向かいました。一度に動かせる筆の先は、30cm四方。制作中、縛り付けた絵筆は腕に付けたままです。塗りたい色を変える度に、絵筆の洗浄を繰り返します。夢中になって、キャンバスとパレット、ウエス(ボロ布, rag /waste cloth)と筆洗器の間を慌ただしく動かしながら、気づけば、腕は疲労で硬直していたと言います。文字にすると、凄まじい苦闘に思えますが、御本人は、ご機嫌な笑顔での日々だったようです。
描かれた作品は、筆の運びこそ短くなったと評されるものの、その歓喜に満ちた作風に、病の影を見る者はいません。画家にとっての命とも言える「指の繊細な動き」が奪われても、ルノワールは、身につけた素晴らしい技芸を思う存分に発揮できました。リウマチの発症から、およそ20年。天に迎えられる直前まで、キャンバスに向かっていたそうです。
ルノワールの獲得した技能は、病(やまい)に指の動きを阻害されても、腕に縛り付けた筆を通じて、ほぼ変わらずに再現できました。これはルノワールだけの特技ではありません。私たちが持つ、脳と身体を通じた、運動と感覚の全体性です。それは、身体を機械的に見ただけでは分からないメカニズムであり、身体の一部を欠損したくらいでは、失われないのです。
身体の中の不思議なメカニズムと道具
繰り返しになりますが、ただの棒が、畑を耕す農具から、歩行を補助する杖となり、はたまた視覚障害者の目ともなる事実。これは杖だけの話ではなく、「道具」が単なる「モノ」ではないことを意味しています。つまり、ヒトにとっての「道具」は、「身体感覚の延長」であり、「外付けの身体」と言えるのではないでしょうか。
私たちが普通に身体を動かすこと。もう少し詳しく言えば、身体からフィードバック(feedback)された感覚を基にして、脳が身体を操作するメカニズム(mechanism, 構造/仕組み/機能)は、その働きの途中(身体/生理機能)が多少なり欠けても、あるいは、何か「道具」を加えても、問題なく全体を整えて、働くのです。
言い換えるなら、立ち上がって歩くことは、ペンを持って文字を書き、ハサミを使って自在に紙を切ることや、杖を使って歩く身体を支え、見えない目の代わりとすることと、全て同じ、身体の中にあるメカニズムが働いているのです。
さらに話を膨らませると、言葉を使うことも、そうです。概念(がいねん, concept)を操作して新たな発想に至ること、他人とコミュニケーション(communication)を取ることも、同じメカニズムで「言語という道具」を使っていると言えます。そして、このメカニズムが上手く機能しているとき、私たちは気持ちよいのです。まぁ、「言葉が通じている」なんて自己満足/錯覚に過ぎない、と言われても仕方がないのですけどね(苦笑)。
先に説明した、義肢の高性能化は、もちろん今後も期待されます。ただ、そもそも単純な構造であれ、使う人の身体に合った義肢や装具が上手く使えているとき、そこには、私たちの誰もが持つ、ヒトの内にあるメカニズムが身体の外に広がって、義肢や装具が使う人の身体と一体になっているはずです。おそらく義手や義足を身につけた中世の騎士たちも、四肢を失う前のように、戦場を駆け回っていたことでしょう。
そして、この辺りの生理学/医学的な研究が進めば、もっと身体を機械化した、それこそSF世界のサイボーグ(cyborg, ※)が実現するかもしれません。私が生きている内に、実現すると良いなぁ。私自身も、そんな研究開発に携わりたいものです。何なら、身体のアチコチ、取り替えたいところだらけですからね(苦笑)。
※サイバネティック・オーガニズム(Cybernetic Organism)の略。広義では、生命体(organism)と自動・自律制御系技術(cybernetic)の融合体の意。ヒトや動物の身体機能を補助ないし強化する目的で、電子機器などで制御する人工物に代替させるアイデア全般。SF作品では「改造人間」と呼ばれることもある。
似た言葉の「人造人間」は、「ヒト型ロボット」や「ヒトのように動く人工物」を指す。「ヒト型ロボット」は「ヒューマノイド(humanoid /human + -oid(~のような))」とも言い、男性型の「アンドロイド(android)」と女性型の「ガイノイド(gynoid)」がある。
サイバネティックス(cybernetics)は、通信/情報/制御/機械/システムなどの工学分野と、生理学など生命科学を融合して、生命と機械を統一的に扱う学問分野。元々、第二次大戦中に学際的な研究として構想されたが、近年の高度情報化社会では、むしろ当然の考え方になった。
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