第77回 抗菌薬と薬の歴史(中編)
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<質問>
本羅先生、こんにちは。この間、いつも元気いっぱいの祖母が、何年ぶりか分からないほど久しぶりに風邪気味で、まさか新型コロナに感染したか、いや百日咳か!?と、慌てて病院に連れて行きました。幸いにも色んな検査は全て陰性で、ただの風邪だったようです。ホッとしました。
処方箋をいただいて、薬局に立ち寄った帰り、どうも祖母がプリプリと怒っていて、「どうしたの?嫌なことあった?」と尋ねると、
「なんだい、あの病院の先生は。薬を出すのをケチってんじゃないかねぇ。全然、少ないよ。ほら、抗生物質とかさ、解熱剤とかさ、何もないじゃない。昔は、もっといっぱい薬を貰ったのよ?」
と、まくし立てました。私が、
「えぇ、何それ!? おばあちゃん、そもそも、そんなに熱は高くないよね(苦笑)。薬もタダじゃないんだし、飲まずに済むなら、その方が良くない? 」
と答えたのですが、イマイチ納得いかないようで、ブツブツ言いながら帰宅しました。ていうか、おばあちゃんの若い頃は、風邪くらいで、そんなに、お薬たくさん出ていたんですかねぇ……。むしろ私は、あまり飲みたくないのですけど。
そういえば、本羅先生はコラムでお薬の飲み方を注意されていましたね(第74回)。お薬の話、もう少し詳しく聞いてもいいですか?(東京都 I.K.)
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<回答>
1点、ご注意願いたいと思います。私は歴史学の専門家(Historian, 歴史家)や考古学者(archaeologist)ではありません。ですから、前回および以下の解説は、執筆時の教科書レベルで史実とされる内容と私個人の歴史観(historical view) ~ 歴史的見解(historical perspective)というより歴史理解(historical understanding) ~ に基づきます。いかなる思想(thought / ideology)や社会体制にも依存しない「技術史(history of technology)」のように読んでもらえれば助かります。
では、前回の簡単な、おさらいです。おそらく人類は、その誕生に始まる、今から数万年も前から、さらには歴史に続く様々な古代文明においても、しっかり薬と関わってきました。現代に通じる「医学」の扉は、西欧文明の祖たる古代ギリシア文明で開かれましたが、続く古代ローマを境に一旦閉じてしまい、その後しばらく沈滞(ちんたい)します。そこで改めて、古代ギリシア/ローマ社会の詳細から解説再開です。
医学の父ヒポクラテスによる医療の一般化
前回の最後と重複しますが、まずは、古代ギリシアの「医学の父」ヒポクラテス(Hippocrates)です。彼は、多数の患者を丁寧に観察し、症例として詳細に記録しました。そして、個々の事象/経験を一般化する、広い意味での帰納法(induction)で、医療の体系化/秩序化を試みました。それまでの経験則や呪(まじな)いが、「医学」に生まれ変わった瞬間です。特に、個々の病状にとらわれず「身体全体を診る医療」は、現代でも襟(えり)を正すべきところでしょう。
医療の一般化とは、人体の複雑な現象の近似(approximate)とモデル化(modeling)です。そして、平均モデルからの差異で、健康/病態を診断します。
ヒポクラテスの採用したモデルは、「四体液説(humorism)」でした。「身体を流れる4種の体液(血液/粘液/黄胆汁/黒胆汁)の不調和が疾病」という考え方ですね。古代ギリシア社会では遺体の解剖が禁忌でしたから、患者の排泄物や体外への分泌物をヒントにした、現代医学とは相いれない、理念的なモデルであったのは、仕方ないでしょう。
ガレノス登場と瀉血という“誤った一般化”
ヒポクラテスから600年、彼に心酔し、古代ギリシアから、古代ローマ同時代までの医療を、宗派問わず体系的にまとめたのは、名医ガレノス(Galen, ラテン語:Galenus)です。古代ローマ社会でも遺体の解剖は禁忌でしたが、彼は、見世物の戦いで負傷した剣闘士の傷口を「体内の窓」と呼び、人体の解剖学/生理学的な理解を深めました。「心」が「脳」に宿り、「心臓」は「血液を流すポンプ」という現代的な理解は、ガレノスの推測が最初です。
しかし、ガレノスには問題がありました。一部の外傷では、皮下出血した患部を切開し、血腫や滞留した血液の除去で回復を早めます。これを一般化して「体の不調部位における”悪い血液”が疾病の原因であり、その体外への放出が治療になる」と考えたのです。いわゆる「瀉血(Bloodletting, しゃけつ)」です。これは四体液説における「血液の不調和」を改善する意味がありました。もちろん、外科治療(血腫の除去)を内科の疾病にまで一般化するのは誤りです。後述しますが、これは先々に禍根を残す「医療行為」でした。
奴隷制が生んだ古代ギリシア/ローマの学術的発展
少し話が逸れますが、古代ギリシア/ローマでの、学術/文化の大きな発展には理由があります。それは奴隷制(Slavery)です。奴隷の主な供給元は、戦争や略奪による捕虜(ほりょ)でした。平均的な市民は1人あたり2~4人、貴族や富裕層は百人単位の奴隷を所有し、日常の家事/雑事を行う家内奴隷(≒召使)と農場や公共施設で肉体労働する使役奴隷がいたようです。ただし、奴隷の職域は多岐(たき)に渡り、市民の見世物として殺し合う剣闘士を始め、中には下級役人(上級役人の下働き)や貴族の秘書、会計士/教師/医師/建築士など高度な専門職に勤務する奴隷もいます。専門職の奴隷は、敗戦国で専門職だった捕虜や、専門教育を施された奴隷が担い、高給で売買/派遣されました。
奴隷が日常と産業を支えたからこそ、古代ギリシア/ローマの市民、特に自由民(注1)は、それこそ自由に学術/文化を深める時間を得たのです。特に、古代ローマ社会において「自由な精神活動/その産物」は高貴であり、「決まった作業(≒労働)/その報酬」は卑賎(ひせん/身分や品格が低いこと)でした。奴隷の専門職も「高度だが高貴ではない」のです。
ゆえに、今ほど医師は尊ばれず、名乗るに特別な資格も不要でしたから、出鱈目(でたらめ)な医師も多かったようです。ただし、腕が良ければ主任医(ラテン語:archiater,
公的な医師)と認められ、貴族の主治医に任じられると、高位の貴族と同じ特権を得ました。また、公務員としての市医(ラテン語:physicus, 今で言う公立病院の医師)は民衆の投票で決められ、政府からの安定した報酬に加えて、富裕層の診察/治療は高収入でした。もちろん、ヒポクラテスやガレノスは志の高い市民で、自ら患者を治療し、医薬品を調合しました。ただし時代を経ると、薬品の調剤は手仕事で管理が大変なこともあって、「薬種商(pigmentarius,
医薬原料を扱う、薬剤師の前身)」の職域に移りました。
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| (注1) |
自由民(ingenui /ギリシア語:eleútheros):
生来自由民(persons who were born free / Free man)とも。古代ギリシアのポリス(都市国家)や古代ローマ諸地域における設立初期の地主(土地の開拓者/所有者)、あるいは資産家を祖先とし、市民権(立法/行政/司法などに参加する権利)を有する特権階級のこと。後世の貴族と平民。古代ギリシアの市民権は厳格に制限されたが、古代ローマでは、貴族-平民間の権力差も徐々に緩和され、征服地/支配域の拡大に伴って、平民としての市民権を周辺国家/他民族に認めた。また、条件を満たせば奴隷にも与えられた。ただし、後天的な権利としての「自由」であるため、解放市民(Freedman
/ Liberty / ラテン語:Libertas)と呼ばれ、自由民とは区別された。 |
アートの語源とリベラルアーツの本来の意味
ちなみに、ヒポクラテスは「芸術は長く人生は短し / Art is long, life is short. /ラテン語:Ars longa,
vita brevis.」という有名な言葉を残しています。これは「医術を修めるには長い努力が必要だが、学ぶ時間には限りがある(だから日々を励むべし)」との薫陶(くんとう)ですが、日本では「優れた芸術作品は時を超えて愛されるが、芸術家の命は儚(はかな)い」と意味の転じることが多いようです。「アート(art)」の和訳が「(観賞目的の)芸術」に引きずられるのでしょうね。元々のラテン語”ars(アルス)”は、ギリシア語”technē(テクネ―)”の訳語です。”technology(テクノロジー,
実用技術の総体)”や”technique(テクニック, 技術/技巧)”の語源ですね。「技術」の意味が強い”art”の類語には、最近流行りの「人工知能(artificial intelligence, 略語:AI)」があります。実際、”art”と対になる英単語は、”nature(自然 /(人の手によらない)それそのもの)”です。つまり「アート」の元々は、語源となるラテン語の「アルス」を対訳したギリシア語「テクネ―」であり、古代ギリシア/ローマにおける「人工物/技術/人が生み出す何か」なのです。
これに、先の「高貴‐卑賎」の価値観を重ねると、古代ギリシア/ローマでは「自由な精神活動」の発露たる「抽象性(abstractness)」が高く評価され、逆に「身体活動/単純作業/労働」といった「具体性(concreteness)」は低く扱われます。よって、非日常的な「アート」は評価/価値が上がります(ここに「(観賞目的の)芸術」が含まれます)。ただし抽象性の高い「アート」は、逆説的に、実務や様々な専門職といった、個々の日常に応用の利く「普遍的な能力」、つまり「本質(essence)」でもあります。そうした、ある意味「万能のアート」こそ、「自由民/解放市民」に求められる、基礎的な教養/能力でした。これが「リベラルアーツ(liberal
arts)」です(注2)。現代では、主に「大学で学ぶ一般教養」の意味ですが、「自由な技術/芸術」と直訳しては、本来の意味「市民/自由民に値する者の技能と教養」は理解できませんよね。
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| (注2) |
リベラルアーツ(liberal arts):
現代では、高等教育における「専門分野を学ぶ前段階」としての幅広い教養。ヘレニズム文化(Hellenism, ギリシア主義)では、市民/自由民として「あるべき姿」の基礎的な教養であり、近代西欧人の基盤とされる能力。古代ギリシア/ローマでは、時代と指導者により内容は増減するが、自由七科(seven liberal arts)と呼ばれる以下の学問分野を基本とする。
〇三学/トリウィウム(Trivium):下位部門(初等教育)。上位部門である四科の基礎。
文法(grammar, 言葉の仕組み)
論理(logic, 思考/分析/議論)
修辞(rhetoric, 表現/意思伝達)
〇四科/クワドリウィウム(Quadrivium):医学や建築学など、応用的な高等教育を学ぶための基礎教養。
算術(arithmetic, 抽象概念としての数)
幾何(geometry, 空間における数)
音楽(music, 時間における数)
天文(astronomy, 自然と宇宙)
ちなみに、リベラルアーツを「藝術」と和訳したのは、明治期の西洋哲学者「西周(にし あまね, 本コラム第58回)」。本来、中国語の「藝」は「教養」の意、「芸」は「防虫効果のある草(葉を書棚に敷いた)」の意で「うん」と発音するが、日本では鎌倉時代から「芸」を「藝」の略字とし、第二次大戦後に制定の当用漢字で、正規の字体とされた。西周は「リベラルアーツ」の語意(市民/自由民の基礎的教養)を意訳したのであり、後に”art”を「藝」と訳したのは誤解だろう。 |
古代ローマの衰退:異民族・内乱・皇帝乱立
閑話休題。ガレノスの時代(西暦2~3世紀)、古代ローマは最盛期を迎えると同時に、社会は一気に不安定化しました。原因は外交と内政に分けられます。
外交は、主に異民族問題、特に、北方(ゲルマン人(注3)の南下と侵入)と東方(ササン朝(注4)の敵対)です。
ゲルマン人は、2世紀以降、「フン族(Huns, 現・ロシア中央部/アジアの遊牧民)の西進」と「北部/中央ヨーロッパの寒冷化」で、集落を南下させました(=ゲルマン人の大移動)。さらに東西へ分散し、各集団がローマ帝国の諸地域と接触します。これは「軍事的な侵攻」というより「混乱する隣国への強引な移住」でした。古代ローマ社会はゲルマン人を取り込みますが、逆に、衰退の顕著だった西ローマ帝国はゲルマン人に終止符を打たれました(西暦476年)。以降、ヨーロッパの西側、つまり西欧文明に、ゲルマン人の気風が根付くことになります。
一方、ペルシア地域(イラン高原/メソポタミア)は、紀元前4世紀のアレキサンダー大王による東方遠征(本コラム前回参照)の後、古代ギリシアが実行支配し、古代ローマが引き継ぎました。しかし、東西の古代文明が行きかう交易路「シルクロード(Silk Road)」の中継地として繁栄すると、独立の機運が高まり、特にササン朝は、ローマ帝国に向けて、頻繁に武力抗争しました。
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| (注3) |
ゲルマン人(Germanic peoples):
紀元前5世紀頃、ヨーロッパ中央から北部、およびスカンジナビア半島で牧畜/農耕していた、ゲルマン祖語(Proto-Germanic)を母語とする集団。現在の「イギリス英語/ドイツ語/オランダ語/デンマーク語/スウェーデン語」などを話す人々の共通祖先。現代考古学の解釈では、単一民族ではない(複数種族の離合集散による混血)。大移動の後、古代ローマの諸地域(特に西側)で各集団が建国。政治的には古代ローマ社会に侵食するも、文化的にはヘレニズムを取り入れて古代ローマに同化、東西ローマ帝国滅亡後は、現代につながる西欧文明を牽引(けんいん)した。ちなみに、古代ローマ社会の食文化は「パン(bread
/ラテン語:panis)とワイン(wine)」だったが、ここにゲルマン人が「肉とビール(Beer)」を持ち込んだと言われる。 |
| (注4) |
ササン朝(Sasanian Empire):
3世紀にイラン系農耕民族(ペルシア人)の建国した王朝。「ササーン朝/サーサーン朝/ササン朝ペルシア」と表記揺れがあるが、本コラムでは「ササン朝」に統一。7世紀半ば、周辺各国との武力抗争が長期化、自然災害による飢饉と疫病の多発や王位継承問題などが重なって弱体化。内乱の末、イスラム教団(注5)に滅ぼされた。ヘレニズムと東西文明の融合したペルシア文化の影響は、ササン朝を通じて、後に続くイスラム世界に色濃く残され、特に古代ギリシア/ローマの学問と技術が保存/更新された(後述)。ゾロアスター教(注6)を国教としたが、実際は、マニ教(注10)が広く信仰されたため、これを弾圧した。 |
| (注5) |
イスラム教(Islam):※断りない場合、英語以外はローマ字表記 / 以下、同様
絶対神「アッラー(Allah, アラーとも)」の言葉を記した、聖典「コーラン(Quran, クルアーンとも)」を信仰する一神教。7世紀初頭、最後の預言者「ムハンマド(Muhammad)」が、メッカ(Mecca)の郊外で、天使ジブリール(アラビア語:Jibrīl
/英語:Gabriel, ガブリエル(旧約聖書に初出))から、アッラーの啓示(けいじ)を受けて開宗。メッカは、現サウジアラビア南西部、紅海(Red
Sea)に面したマッカ州の州都。「イスラム」は、アラビア語で「大切な所有物の献上」転じて「神への献身/絶対服従」の意。全ての「ムスリム(muslim,
イスラム教信徒)」は「ウンマ(Ummah, 信仰共同体)」に属し、信徒間の相互扶助/一体感を重視する。アッラーは、唯一絶対固有かつ全知全能で時空を超越した存在であり、姿かたちは人間に想像不能とされ、「偶像崇拝,
idolatry)」を禁じている。初期のイスラム教は、「一神教 / 神の啓示や聖典を重視 / 天使や預言者の共通性」という点で、ユダヤ教およびキリスト教(後述)を「同系統の、先行する不完全な宗教」と強調した。開宗当初はアラブ人の民族宗教だったが、貧富や階級を問わない「神の前での平等」を説くことで、西アジアを中心にイラン人やトルコ人に広がり、世界宗教となった。帝国化した初期(7世紀末)、カリフ(Caliph)の派閥継承問題で、大本の「スンナ派(Sunni
Islam, スンニ派とも/最大多数派)」から「シーア派(Shia Islam, 二大宗派の1つ)」が分離した。カリフは、「ムハンマドの後継者(預言者の代理人)」で「イスラム国家の最高権威(指導者)」。ただし、1924年に制度は廃止。ちなみに「ムハンマド」は表記揺れが多く、日本語では「マホメット(ラテン語:Machometus
/トルコ語:Mehmet / Muhammetの音訳)」が多い。その他「ムハマッド/ムハマド/モハメット/モハメド/メフメット/メフメト/メフメド」がある。 |
| (注6) |
ゾロアスター教(Zoroastrianism, 拝火教):
紀元前1200~600年、「ザラスシュトラ(ペルシア語:Zartošt)」を開祖とし、創造主「アフラ・マズダー(Ahura Mazda, 天空の光/太陽神)」を最高神とする一神教。「創始者が特定できる最古の宗教」かつ「世界最古の一神教」とされる。ザラスシュトラは、ペルシア地域の古代アーリア人(注7)が信仰する「自然崇拝の多神教」における神官/司祭の家系に生まれた。長じて、古代多神教を整理し、一神教として開宗した。「善悪二元論(世界を「善悪の争い」と認識)」「終末論(eschatology, 社会の困窮と最後の審判)」「善の勝利(選別と救済)」を説いた。「純粋な光」を「善」の象徴とし、神の偶像を持たず「火」を聖視した。ザラスシュトラの点火した、昼夜を問わず燃え続ける神殿の炎を礼拝したことから「拝火教」とも。聖典「アヴェスター(Avestā)」は、口頭伝承(oral tradition)された宗教文学で、現在に残る形式は、ササン朝(注4)が編纂(へんさん)し「アヴェスター語/文字(Avestan)」で音写された。アヴェスター語は古代アーリア人の北部方言と思われるが、聖典アヴェスターの言語体系のみで、他の文献に未使用。ちなみに「ゾロアスター(Zoroaster)」は、「ザラスシュトラ」の古代ギリシア語訳「ゾーロアストレース(Zōroastrēs)」を英訳したもの。また、ニーチェ(注8)の著作やリヒャルト・シュトラウス(注9)作曲の交響詩で有名な「ツァラトゥストラ(Zarathustra)かく語りき」は「ザラスシュトラ」のドイツ語訳。 |
| (注7) |
アーリア人(Aryan):
紀元前4000年頃の中央アジアを出自とし、紀元前3000~2000年頃にペルシア地方やインド亜大陸へ移住した、広義の「インドヨーロッパ祖語(Proto-Indo-European language)」を母語とする集団。古典言語(ギリシア語/ラテン語/ペルシア語/アヴェスター語/サンスクリット語など)やゲルマン祖語(注3)話者の共通祖先だが、現代考古学の解釈では、単一民族ではない(複数種族の離合集散による混血)。 |
| (注8) |
フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ(ドイツ語: Friedrich Wilhelm Nietzsche):
19世紀後半に活躍した、プロイセン王国(Kingdom of Prussia, 現ドイツ北部からポーランド西部)出身の古典文献学者/哲学者。「永劫回帰(えいごうかいき)」「超人」「神は死んだ」など、独自の概念で、西欧文明の世界観に対する新たな思想を生み出した。ちなみに、主著「ツァラトゥストラかく語りき」の内容は、「ゾロアスター教」の教義と無関係。 |
| (注9) |
リヒャルト・ゲオルク・シュトラウス(ドイツ語: Richard Georg Strauss):
19世紀後半、バイエルン王国(Kingdom of Bavaria, 現ドイツ南部)に生まれ、第二次大戦後までドイツで活躍した世界的な作曲家/指揮者。「ヴィルヘルム・リヒャルト・ワーグナー(ドイツ語: Wilhelm Richard Wagne)」と「フランツ・リスト(ドイツ語: Franz Liszt」の後継者とも呼ばれる。ちなみに、ワーグナーは「オペラ(opera, 演劇と音楽による舞台芸術)」の一種である「楽劇(Music drama)」の創始者で、リストは「ピアノの魔術師」の異名を持ち、「交響詩(symphonic poem)」の創始者でもある。「交響詩」は管弦楽曲のジャンルで、誌的風景の描写が特徴。 |
| (注10) |
マニ教(Manichaeism, 摩尼教,中国語音訳):
3世紀のササン朝で、預言者マニ(Mani, マーニーとも)を開祖とする二元論の宗教。幼少期のマニは、異端(heterodoxy)とされたユダヤ教寄りの初期キリスト教「エルカサイ派(Elcesaites)」の教団に属した。長じて、教団での経験に、ゾロアスター教(注6)や様々な宗教を混交し、新たに開宗した。ちなみに、エルカサイ派は、キリスト教のイエスを「神でない(人としての)救世主」と崇め、 隠された真知「グノーシス(ギリシア語:Gnosis,
知識)」を重視する神秘思想「グノーシス主義(Gnosticism)」を特徴とする。マニ教では「光と闇/善と悪/精神と物質(身体)/生と死」の明確な二項対立が「始原の宇宙」で、「闇/悪/身体/死」をありのままの「現世」とし、強く否定した。現世の改善に必要な「禁欲/清浄/道徳的な生活」が「光/善/精神/生」をもたらし、闇との戦いで光の勝利に必要と考えた。当時あらゆる文化が行きかうペルシア地域ならではの折衷(せっちゅう)主義で、様々な宗教の教義/表象/組織形態を取り込み、各地に伝道/布教した。宗教創始者に珍しく、マニは自ら経典を執筆し、布教の際は、その地域の宗教に親和するような経典の翻訳/翻案を良しとしたため、西は北アフリカ/イベリア半島から、東はインド/中国まで、爆発的に信者を増やし、当時、最も勢いある世界宗教となった。一方、宗教としては柔軟が過ぎて教義の一貫性が保たれず、マニの死後は廃れた。むしろ、影響を与えた各地の宗教に吸収されたのかもしれない。 |
外交問題は、内政の混乱を引き起こしました。「皇帝の乱立」です。
ローマ帝国では、軍隊の最高司令官を兼ねる「皇帝(Roman emperor)」が国家元首ですが(帝政)、それを指名するのは、共和制ローマから続く、代表貴族たちによる統治機関「元老院(Roman
Senate)」でした。しかし、皇帝は終身制だったので、失政/悪政を理由に更迭できません。よって、都合の悪い皇帝の排除には、非公式な強硬策が横行しました。
暗殺(注11)やクーデター(注12)です。
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| (注11) |
暗殺(assassination):
秘密裏な政治的重要人物の殺害行為。 |
| (注12) |
クーデター(フランス語:coup d'État / 英語:coup):
支配階級内部での暴力的な政権の転覆/争奪。 |
異民族との武力衝突が増加し、社会が軍事政権を希求すると、元老院は軍部の強圧に屈して、安易に軍人皇帝を追認しました。ところが、軍部内の権力争いで、不穏なことに、次から次へ皇帝が変わります。不安定な短期政権が連続することで「誰でも皇帝になれるのか?」と皇帝の権威が失墜(しっつい)。挙句(あげく)、元老院の追認すらない「僭称皇帝(tyrant, せんしょうこうてい/僭主(せんしゅ))」が、各地で乱立しました。結果、ローマ帝国は、国土分裂の危機に陥(おちい)ります。
この混乱を抑えたのは、皇帝ディオクレティアヌス(Diocletianus, 在位:西暦284-305年)でした。軍人を内政から切り離し、「官僚」を導入したのです。それを制度化したのが、続く皇帝コンスタンティヌス1世(Constantinus I, 在位:西暦306-337年)でした。官僚制を推し進めて内政を整備し、帝国は再統一されました。ちなみにコンスタンティヌス1世は、東ローマ帝国の行政首都として、自らの名にちなんだ「コンスタンティノープル(Constantinople)」を建設しました。現在でも、トルコ最大の都市かつ欧亜の経済/文化/歴史を誇る「イスタンブール(Istanbul)」として知られます。
多神教ローマにおけるキリスト教の台頭と宗教問題
内政の課題には、もう1つ、宗教問題がありました。
豊かな神話から分かるように、古代ローマの信仰は、多神教でした。しかし、ヘレニズム文化の地域拡大に伴って各地の人々が盛んに往来すると、価値観は多様化し、従来の信仰が薄れて「お祭り/政治的儀式/習慣的儀礼」に形骸化しました。しかし、古代ローマ社会の混乱と不安定さは増すばかり。そこに、新たな「個人の信仰と道徳の規準」を示し「社会(≒所属する生活集団)との一体感」を与えたのが、キリスト教(注13)です。「自由民と奴隷」「貴族と平民(特に貧民層)」の格差が厳然たる古代ローマ社会で「隣人愛/慈悲/慈善/神の下の平等」の教えは魅力的だったのでしょう。ただし、ローマ帝国の公的な宗教行事や奉仕活動を拒否する等、社会秩序を乱すと為政者に判断されると、事あるごとに信徒は迫害(拷問/虐殺/追放)されました。
社会不安を憂いて即位した、先の皇帝ディオクレティアヌスは、軍政の混乱こそ緩和できましたが、宗教問題では失政でした。彼は「社会(≒国家)の一体感」の醸成を目的としたのでしょう。自らを「ローマ神話における主神の子」と称し、市民にローマの神々を崇めるよう義務付けました。「これまでの信仰」を通じた「皇帝への服従と権威回復」を試みたわけです。同時に、立ちはだかる国内の不穏因子として、異教徒のキリスト教(格差社会の否定/他教の拒否)やマニ教(注10, 現世否定)の弾圧を強めました。ときには、見世物として信徒を残虐に殺害したようです。しかし、それまでも為政者から迫害されつつ布教を続けていたキリスト教徒は強く反発し、積極的に殉教(Martyr, 信仰の証としての死)を選び、強い信心を社会に印象付けました。軍でも兵士の反逆/離脱が多発し、宮廷が焼かれるなど、むしろ社会の不安定感は増しました。
そこで、続く皇帝コンスタンティヌス1世は、真逆に方針転換しました。キリスト教に改宗した初のローマ皇帝となったのです。ただし、信仰心は篤(あつ)くありません。東方異民族の各宗教にも好意的でしたし、万人の自由な信仰を認めたのです。結果、相対的に人心は落ち着き、社会の安定が促されました。以降のローマ帝国では、自由になったキリスト教の布教が勢いづきます。そして皇帝テオドシウス1世(Theodosius I, 在位:西暦379-395年)がキリスト教を事実上の国教とすると(西暦392年に他宗教の禁止令を公布)、西欧文明の大きな文化的/精神的な要素として、キリスト教の影響が強まりました。
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| (注13) |
キリスト教(Christianity, 耶蘇教/基督教):
イエス・キリスト(Jesus Christ, ジーザス・クライスト)を救世主(メシア)として信仰する宗教。ユダヤ教(注14)を背景にしたイエスと使徒(イエスの弟子たち)の言行を教義として世界宗教となり、現代に至る西欧文明の大きな要素を占めた。一例として、西暦はイエスの誕生を元年(紀元)としている(実際の誕生は紀元前7-4年と推定)。 |
| (注14) |
ユダヤ教(Judaism):
ユダヤ人の民族宗教で、「ヤハウェ(Yahweh)」を唯一絶対神とする一神教。聖典は「ヘブライ語聖書(Hebrew Bible, キリスト教における「旧約聖書」)」と「タルムード(Talmud,
研究)」。ヘブライ語聖書は、「律法(Torah, トーラー / モーセ五書とも)」「預言者の書 (Nevi'im, ネビーイーム)」「諸書(ketuvim,
クトビーム / カトビーム)」に区分され、各区の頭文字から「タナハ(Tanakh)」とも呼称。中でも、律法(トーラー)は「教え/指示」を意味し、宗教指導者かつ聖職者の「ラビ(rabbi,
祭司)」が歴史的に「律法学者」と呼ばれ、成文化した「律法」の編纂から漏れた内容を「口伝律法」として伝え、成文/口伝の注釈/解説/議論を聖典「タルムード」にまとめた経緯がある。ユダヤ教は、聖典を学んで神に近づく
/ 選ばれることを教義とする。ラビには「師」の意味もあり、教育を重視するため、聖職者/権力者以外の大衆ほとんどが非識字者(illiteracy)だった古代から、信徒の識字率(literacy
rate)が高い。神からの選抜は、律法による神の預言と戒律(規律/禁忌)の厳守を条件とする(律法主義 / 選民思想)。また「救世主(メシア)が地上に神の国を建て、人々を救う」という預言を信仰。このメシアをイエスとするのが、キリスト教である。 |
公衆衛生の後退と医学の停滞
さて、ここまでの説明で、西欧文明(ヨーロッパ)の三大要素 ~ 古典古代(classical antiquity, 古代ギリシャ/ローマ)/ ゲルマン人 / キリスト教 ~ が揃いました。そして、歴史は古代を経て、中世に進みます。
ところで、漫画原作で実写映画化するほど有名な話、古代ローマ人は、お風呂が大好きでした。都市には上下水道と公共浴場が完備され、もちろん、手入れ/清掃が不十分だと感染症の温床になりましたが、基本的な公衆衛生は、高水準でした。また、病人に対しては、滋養と休息を重要とし、健康を身体の「快」と考えていました。しかし、中世では、キリスト教の文化的価値観が広まるにつれ、マニ教(注10)との同時代的親和性もあってか「禁欲/清浄/節制/倫理の堅持」が極端になり、高い精神性と純潔を重んじた「粗食や断食 / 不眠不休の修行(祈祷)/
性愛の拒否 / 裸体の穢れ」といった志向性は、結果的に、公衆衛生や疾病予防的な生活習慣を廃(すた)れさせました。
また、三位一体の解りにくさ(イエスは神か人か?ヤハウェと別の神なら一神教ではない?など)もあってか、キリスト教内での教義を巡る異端(heterodoxy)と正統(orthodoxy)の論争は、ローマで布教が進む初期からありました。結果、現在でも「カトリック教会(Catholic Church, 西方旧教とも)」「プロテスタント(Protestant, 西方新教とも)」「正教会(Orthodox Church, 東方とも)」に代表される幾つもの教派(denominations)に分かれています。この点ではマニ教と逆に、キリスト教徒の異端/異教への不寛容さ/攻撃性は大きく、信仰の禁止(破門)/処刑/追放が繰り返されました。
東方への頭脳流出とイスラム世界での医学発展
異端とされたキリスト教徒はローマ帝国を離れ、多くは東進してイスラム社会に紛れました。帝国化したイスラムは、他の一神教教徒(ユダヤ教/キリスト教/ゾロアスター教/マニ教など)を「同系統の不完全な宗教(注5)」と見做し、ジズヤ(Jizya, 人頭税)を払えば、弾圧しなかったのです。また、専門職の従事者には、信仰を問いませんでした。その結果、ペルシアやローマ帝国に残されていた、様々な古典古代の文化遺産(もちろん、ヒポクラテスやガレノスも)が、さらに東方のインド/アジアの文化とともに、イスラム社会で集積し、発展します。また、ササン朝に代わる東西文明との交易による、多彩な物資の流通は、薬種商の活躍を促しました。イスラムの医師たちは、ガレノスや四体液説を超える新たな医学を産むには至りませんでしたが、医学書/薬学書をアラビア語に訳す中で理論的考察を深め、得られた医術を実践しました。
一方、まさに「頭脳流出(brain drain / Human capital flight)」のヨーロッパです。教会内の規範が、信徒を通じて世間に浸透し、社会の一般常識として定着するという意味で、キリスト教は大きく影響します。聖母マリアの処女懐胎や、生前のイエスが起こした「病人の癒し」など数々の奇跡があってか、疾病は「神の罰/悪魔憑き」などと解釈され、祈りや儀式で治そうとするなど、医療水準は古(いにしえ)に翻(ひるがえ)り、体系的な医術は異端視されました。ここで、古代ギリシアにおける医学/薬学の萌芽は、萎(しお)れます。
修道院が守った“医学の火種”と病院の原型誕生
とはいえ、現代的な医療/看護の、少なくとも発想の一端は、キリスト教の「異教徒にも与える慈善」に基づいています。信仰に身を捧げる修道士/修道女(Monk/Nun, 修道者とも)が、ともに祈り/学び/労働する、自給自足の共同生活施設である修道院(Abbey, もちろん男女別)には、修養/修行の設備とは別区画に、巡礼者の宿泊/社会的弱者の援助/患者の治療に用いる施設が用意されました。規模によっては、隣接して「救貧院(almshouse, きゅうひんいん)」や「施療院(hospice, せりょういん)」を建てています。これは、ラテン語の「客を迎える場所(hospitium, ホスピティウム)」に由来する施設で、現代の「病院(hospital)」の原型です。施療院での聖務には、医師/看護師としての役割が求められますから、少しでも患者を癒そうと、原始的な民間療法に加えて、(学問としては異端になるため)図書室で埃をかぶるヒポクラテスやガレノスの医学書を実用書として使い、庭では食料と共に薬草を栽培しました。結果的に、「医学」の種は、わずかながら教会に残されたようです。
おっと、ようやく中世に差し掛かったところで、字数が大幅に超過です。今回は、医学/薬学というより、近代科学の根幹にある西欧文明を根っこから理解するべく、背景の説明が多くなってしまいました(むしろ、そっちが中心?)。しかし、現代の科学文明につながる大海の、複雑かつ大きな流れは、何とか泳ぎ切れたと思います(まだ沖で溺れているかも?)。
次回は、完結編として、中世から近代を駆け抜け、現代の薬学まで辿りつきたいと思います。もちろん、過去の本コラムで触れていることは参照しますから、多分、大丈夫でしょう(?)。
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