第86回 ダイビングについて(後編)
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<質問>
本螺先生、こんにちは。ずいぶん暑くなってきましたね。今年、関東の梅雨明けは7月の後半じゃないか、と朝の情報番組でお天気コーナーのお姉さんから聞きました。きっと、海開きは、その後ですよね。私は、海で泳ぐのが好きなので、待ち遠しいです。と言っても、泳ぐのは好きなのですが、息継(いきつ)ぎが下手で、距離も時間も、そんなに長くは泳げません。いつかは、イルカと並んで、一緒にスイスイ泳ぎたいのですけど。そんな話を友達にしたら、「だったら、先にダイビングでもやれば?」と言われました。確かに!
実際に、TVや映画にあるような、きれいな海の中を自分の目で見たら凄いんだろうなぁと思います。でも、海に流されて遭難(そうなん)したり、死亡事故もあったりすることを考えると、やっぱり躊躇(ちゅうちょ)してしまいます。少しは泳げるので溺(おぼ)れないと思うのですけど、陸地から離れた海に取り残されたり、海中に潜っているときに何かあったりしたら、と思うと怖くなります。やっぱり、憧(あこが)れのイルカやクジラのような、海の哺乳類って凄いですね。私たち、ヒトや陸上の哺乳類とは、身体の作りが違うのでしょうか?(神奈川県 M.N.)
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<回答> さて、後編です。今年(2026年/令和8年)の関東甲信の梅雨明けは、前回にお伝えした日本気象協会の予報通り、7月20日でしたね。気象庁の発表によると、梅雨入りとともに、いずれも「平年並み(※)」とのこと。
| ※気象庁の階級表現で、過去30年(1991~2020年/10年毎に更新)の観測値を順に並べ、3段階に分けたもの。最も「低い/少ない/早い」観測値から数えて11番目から20番目の値を「平年並み」とし、10番目以下の値を「(平年より)低い/少ない/早い」、21番目以上の値を「(平年より)高い/多い/遅い」に区分する。 |
そして、関東甲信の梅雨明け以降、全国的に、ものすごく暑い日が続きました。日中の最高気温(日最高気温)が40℃を超えた「酷暑日(こくしょび)」が5日連続と史上最長記録の更新です(2026年7月21日~7月25日)。昨年(2025年)は記録的に梅雨明けが早くて、「観測史上で最も暑い夏」と言われました。それでも酷暑日が連続したのは、2025年7月30日~8月2日に過去タイ記録の(record-tying / record-equaling)4日連続までで、それでも「夏の猛暑」とニュースになるくらいでしたから、それを上回るペースに、ビックリですね。ちなみに、それ以前の記録は、2013年8月10~13日でしたから、干支が一周しています。
ところで、この「酷暑日」ですが、気象庁によって「日最高気温が40℃を超える日」と正式に定義されたのは、つい最近の話で、今年(2026年4月17日)の発表でした。上記で参照した昨年度のニュースに「酷暑日」という単語が使われていないのは、それが理由です。それまでは、気象統計上の分類における「最も暑い日」は、「日最高気温が35℃以上」の「猛暑日(もうしょび)」で、昨年は「猛暑日と、その観測点」を数えて、「観測史上~」だったわけです。
実は、日本気象協会では、「酷暑日」を2022年から使っていました。当時、所属する気象予報士たちにアンケートを取って、「非常に危険な暑さを明確に伝える」ために名付けられたのだとか。それを気象庁が「気象用語」として、今年から正式に採用したようです。昨年の、12年ぶりの酷暑日タイ記録が、後押ししたのかもしれませんね。
酷暑日の対策として、最も大切なのは「極力、外出を控えること」とのこと。いやいや、私たち勤め人の、勤め先に赴(おもむ)く毎日が、「行うべきでない行為」になるのでは?と苦笑いです。しかし、苦笑いで済ませられる内に、しっかり対策しておきましょう。何の? そう、「熱中症(heat stroke)」です(本コラム第4回参照)。報道で予報される酷暑日は、もちろんのこと、自分にとって、それなりの暑さを感じる日は、短時間の外出だとしても、激しい運動(早歩きや小走りも含めて)と直射日光を避け、喉(のど)が渇(かわ)く前から小まめに給水し、涼しい服装(特に首元を冷やす工夫)を意識してくださいね。
2つの呼吸
それにしても、こうも暑いと、 M.N.さんのみならず、私も、海が恋しいですね。ここのところ、毎日の通勤で行き帰りするたびに、水に飛び込む妄想に駆られます。とはいえ、もし、通勤経路に海や河川があっても、簡単に飛び込んではいけません(当たり前)。私たち、陸上生活をする動物にとって、水は、身体の大半を占める必須要素(ひっすようそ)であると同時に(※)、大量に囲まれたときは、呼吸(respiration)を妨(さまた)げる障害となり、命を落としかねませんから。
※水分(≒体液)の体重比は、一般的な成人男性で60%、成人女性で55%(男性より体脂肪比が大きいため)、新生児では80%と言われる。個人差はあるものの、高齢者では50%前後に減少する。そのため、脱水の影響が大きくなり、熱中症に罹(かか)りやすくなる。
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そして、「呼吸」の定義を以下とします。
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酸素(oxygen /分子記号:O2)を取り込み、二酸化炭素(carbon dioxide /分子記号:CO2)を排出すること |
すると、水に囲まれて妨げられるのは、より正確には、外呼吸(external respiration)です。外呼吸では、鼻や口から、肺を膨らませて空気を満たし、酸素を血液に取り込み、二酸化炭素を空気中に排出します。もし、肺を満たすべき空気が水に遮(さえぎ)られると、外呼吸が出来なくなり、対処が遅れると窒息(ちっそく)します。窒息は、主に外呼吸の阻害によって、血中での酸素濃度の低下と二酸化炭素濃度の上昇が、身体内組織に与える機能障害のことを言います。英語では文脈に応じて、以下の3語が使われるようです。
| ・ |
choke:(喉や管を)詰まらせる/窒息させる/絞殺(こうさつ)する、など。転じて、工業的には「管内を狭める/詰まらせる/(それらによって)流量を制限する」など。あるいは、情報工学では「(コンピューターやプログラムが突然に)止まる/固まる/反応しなくなる」などの意でも用いる。
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| ・ |
suffocation:息の根を止めること/窒息(させること)、など。広く、「酸素不足による呼吸困難」を意味し、使用において、酸素不足の原因は不問。
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| ・ |
asphyxia:呼吸停止/窒息による仮死、など。酸素不足の原因は不問だが、医学論文や技術報告など、硬い文書での使用が多い。
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ちなみに、血中での酸素濃度の低下と二酸化炭素濃度の上昇、いわゆる「体内での酸素消費」は、生命体における、もう一つの呼吸が、関わります。それが内呼吸(internal respiration)です。動物では、血液と細胞の間で行われます。より正確には赤血球(erythrocyte / red blood cell /略語:RBC)に含まれるタンパク質のヘモグロビン(hemoglobin /略語:Hb)と結合した酸素が細胞に取り込まれ、細胞からの二酸化炭素が血中に溶けます。とはいえ、二酸化炭素が血漿(けっしょう, 血液の液体成分)へ直接に溶ける量は、わずかで(約7%)、大半(約93%)は、赤血球が取り込みます。その、およそ70%は重炭酸イオン(bicarbonate ion /分子記号:HCO₃⁻)の形で、残りの約23%はカルバミノヘモグロビン(carbaminohemoglobin, ※)」として、肺まで運ばれます。
水中での生理反応
本題に進みますが、上記した窒息の危険を覚悟して行うのが、潜水ということになります。いわゆる「素潜り」、「止息(しそく)潜水/息こらえ潜水(breath-hold diving)」とも言います。より正確には、外呼吸を意識的に止め、内呼吸が破綻(はたん)しない条件で行う水中活動、ということですね。私たちヒトを含む、陸上生活をする動物にとって、不自然な行為であることは間違いありません。このとき、私たちの身体の中では、何が起きるのでしょうか。
水に潜るとき、私たちの身体では、反射的に、心拍数(heart rate /略語:HR)が低下し、末梢の毛細血管(capillary vessel)が収縮します。これを潜水反応(diving response)と呼んでいます。ただし、「潜水」と言っても、正確には「息を止める」ことで生じる反応です。上記したように、外呼吸を止めると、全身での酸素消費(血中の、酸素濃度低下と二酸化炭素濃度上昇)を少しでも節約しようとするのでしょう。しかし、いかに意識が息を止めようと、身体は、次第に「息苦しさ」を感じさせ、呼吸を再開するよう促します。耐えきれず、呼吸を再開すると、潜水反応は消えます。息苦しさの程度、つまり息を止めている間の時間や運動強度によりますが、再開後は、血中酸素濃度が回復するまで、深く大きな呼吸になります。
息を止めることで生じる潜水反応は、身体が水に濡れることで、さらに強まります。もちろん手足だけでは、そう変わりませんが、息を止めて顔(特に鼻腔)が濡れ、それが、お湯より冷水のとき、最も強まります。
呼吸を我慢することによる循環器(心臓/血管)への影響以外にも、水に身体全体を沈めることは、生理的に大きく影響します。一番わかりやすいのは、体温です。皮膚を通じて、冷水なら熱が奪われ、温水なら暑くなります。冷水で潜水反応が強まるのは、熱を奪われまいとする反射でもあるのでしょう。
また、体表に水圧がかかると、利尿作用の促進により、体液/血液の量が減ります。ざっくり言いますと、全身(首から下)に水圧がかかると、末梢血管が収縮して、血液が、濡れタオルを絞るかのように、四肢末端から中枢へ移動します。手足から胴体に、さらには腹部から胸部に、血液が集まるのです。末梢から心臓に向けて血液が移動することで、水圧に対して身体の内側から押し返すだけの血圧が作られます。この血圧上昇が脳を刺激すると、生理活性物質バソプレッシン(注1)の分泌が減り、腎臓で作られる尿量が増え、結果として血液量が減ります。
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| (注1) |
バソプレッシン(Vasopressin):
脳の視床下部が血圧減少を検知することで、下垂体後葉が合成/分泌する、抗利尿作用(尿を作らせない)ホルモンのこと。血圧上昇ホルモンとも言う。平時の機能は、血管収縮作用により血圧を上げると同時に、腎臓で濾(こ)された尿から水を再吸収して、尿の総量を減らすことにより、循環する血液量の減少を妨(さまた)げて、血圧が下がらないように働く。逆に、血圧が上昇すると合成/分泌が止まり、尿量を増やして血液量を減らし、血圧を下げる。ちなみに、「管/血管」を意味する接頭辞"vaso"と「押す」を意味する”press”の合成語。
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このとき末梢血管の収縮で四肢末端は虚血(きょけつ, ※)になりますが、一時的に無視されます(生命維持への影響は中枢より小さいため)。また、体温の低下は、利尿作用を増強します。皆さんも、寒さに震えて、お手洗いの近くなった経験があるのでは?(※※)
※※寒冷刺激 → 熱を逃がさない → 末梢血管の収縮 → 血圧が上がる → 下げるには尿として循環血液量を減らすのが手っ取り早い(≒バソプレッシン分泌停止)、という流れ。ちなみに、このとき、身体がブルっと震えるのは、小水の排泄(はいせつ)と同時に出て行く熱を筋収縮で補完しようとするため。
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もう一つ、分かり易いのが、視覚(eyesight, sense of vision / faculty of sight / optical sensation)です。水中では、角膜(かくまく, cornea, いわゆる「眼球の表面」)における光の屈折率(refractive index / index of refraction)が空気中と変わるので、調節が追いつかず網膜(もうまく, retina)に焦点が合わなくなり、視野がボケてしまいます。これを補正するのが水中メガネ(goggles)です。水中と眼球の間に空気の層を確保するわけですね。
息さえ続けば ~潜水器具の開発~
潜水に伴う生理反応の幾つかは、外呼吸に必要な空気を確保することで回避できます。ポンプ(pump /オランダ語:pomp)からチューブ(tube)やホース(hose
/オランダ語:hoos)を通して空気を水中に送り、身体(特に、頭部)を覆(おお)った器材の中で呼吸する、送気式(別称:他給気式)潜水器のアイデア(idea)は、古くは中世から試されていました。その中で、実用化された1つが、潜水鐘(せんすいしょう)です(図1)。
水中に空気を送るには、その水深における水圧より高い気圧が必要です。そして、連続して高気圧をかけられるポンプが、技術的に可能となり、潜水服が開発されました(図2)。
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| 図2.潜水服(diving dress / deep sea diving suit) |
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・左図:金属製の、頭全体を覆うヘルメット(full face helmet)。浅瀬を潜る場合は、ヘルメットの下部が開口していることもあるが、深海や危険な水中では全身を覆う潜水服と密着させて固定し、防水する。
・右図:潜水服を着用する様子。1人では難しい。 |
潜水服の元々は、消防士が、火災現場の火元に近付くための発明だったそうです。つまり、煙を避けるヘルメット(Smoke Helmet)だったのですね。予算等の関係で、開発にあたり、他分野への応用に注目したのが、水中作業、特に海洋サルベージ(Marine salvage)と呼ばれる、沈没船舶から積荷を引き上げて回収する仕事でした。ただし、潜水服の装着のみならず、潜水作業時の送気管理を含めて、船上には、大掛かりな器材と作業員が必要です。
潜水作業が、現在のように、もう少し簡便になるには、さらなる技術革新が必要でした。そして、大量の空気を圧縮したタンク(tank)が1人で持ち運びできる大きさになり、水深(≒水圧)に合わせて呼吸を助けるレギュレーターセット(regulator set, ※)が発明され、工夫に工夫を重ねて作られた潜水器具が、前回に説明した、自給式水中呼吸装置(Self-Contained Underwater Breathing Apparatus)、スクーバ(SCUBA)です。
ちなみに、現在、使われるレギュの元祖は「アクアラング(Aqua-Lung)」です。ラテン語の「水(aqua)」と英語の「肺(lung)」を合成した製品名/商標ですが、開発国はフランス。第二次世界大戦後に製品名を型番の”CG45”から変更して(※)、アメリカで商業的な成功を収めたことで、世界中にスキューバダイビングが広まり、一時はダイビング器材の代名詞ともなりました。
| ※”CG45” は、開発者である「ジャック=イヴ・クストー(Jacques-Yves Cousteau, ”C”)」と「エミール・ガニャン(Émile Gagnan, ”G”)」、特許取得年(19”45”)の組合せ。 |
息ができるからこその問題
さて、時間を19世紀に巻き戻します。潜水服の開発で、ある程度の制限はあれど、新たに水中で自由な活動ができるようになった時代が始まりました。しかし、技術的に呼吸が確保できても、水中に身を置く不自然さは、生理学的に影響します。
最も大きな影響は、水圧です。上記したように、空気を水中に送るには、水圧以上の気圧が必要です。深く潜ると、それに伴って必要な気圧が高まります。それが、外呼吸に影響するのです。
もう少し具体的に説明しますね。肺での酸素と二酸化炭素の交換は、肺胞(alveoli, ※)における毛細血管を介した、液体(血液≒水)に対する気体の溶解(酸素)と放出(二酸化炭素)です。
※”alveoli” は、ラテン語の複数形。単数形では ”alveolus”。あるいは、英語表現では ”air sac” とも言う。ちなみに
”sac” は、医学/生物学用語で「嚢(のう, 袋状組織)」の意。複数形は、”sacs”。
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読者で、高校化学を習った方は、ヘンリーの法則(※)を思い出してください。すぐに溶ける(≒溶解度が高い)気体はともかく、簡単に溶けない(≒溶解度が低い)気体も、高圧にすると(さらに、液体を低温にすると)溶けやすくなるのです。つまり、地上(≒ 1気圧)では気にすることの無かった気体、特に、空気中の窒素(分子記号:N2)が血中に溶けること、これが問題となったのです。
※溶媒(ここでは、水)の温度が一定であれば、気体の溶解度は液体に接する気圧に比例する。ただし、複数種の混合気体では、 分圧(全体の気圧×対象気体の混合比)に比例する。
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窒素で酔っぱらう!?
当時の人々が、潜水器具の発達によって、仕事として深く潜れるようになると(20m以上)、不思議な事故が増えました。大きく分けて、事故の内容は、2種類あります。1つは、潜水作業中に、まるで酒に酔ったかのように気持ち良くなり、理性を失う者が現れたのです。これを窒素酔い(Nitrogen narcosis)と言います。もちろん全ての人ではないのですが、ただでさえ危険な水中作業が、周囲の仲間を巻き込んで、さらに危険になります。
興味深いことに、窒素酔いは、お酒の宿酔い/二日酔い(ふつかよい, hangover)みたいに長引かず、安全に浮上するだけで、すぐ素面/白面(しらふ, sober)に戻ります。
窒素で酔っ払う、と聞いても、奇妙に感じる読者が大半でしょう。とは言え、多少なり薬学や麻酔の知識がある方なら、ピンとくる物質があります。それは、笑気(しょうき, laughing gas / happy gas)です。笑気は通称で、化学や医学で扱うときの分子名は亜酸化窒素(あさんかちっそ, nitrous oxide)、化学記号では ”N2O”と表記します。ちなみに「国際純正・応用化学連合(International Union of Pure and Applied Chemistry
/略称:IUPAC(アイユーパック))」の勧告する国際的な命名法では「酸化二窒素(dinitrogen oxide)」と言い、分子構造を強調した「一酸化二窒素(dinitrogen
monoxide)」も使われます。
現代化学が急激に発展した18世紀のイギリスで発見(≒合成)された、笑気。当初の研究目的は、結核など呼吸器感染症の治療に使う「良い空気」を作ることでした(※)。
※感染症の概念は、病原体(細菌など)が理解された19世紀以降に誕生。それ以前は「悪い空気(=瘴気(しょうき))」が病因とされていた。本コラム第79回参照。
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当然のことながら、治療には役立ちませんでしたが、恍惚(こうこつ)/陶酔(とうすい)/脱不安といった「気持ち良く酔った感覚」を得られることが分かりました。吸引した人に効果が現れると、表情筋が緩(ゆる)んでニヤけた笑顔になることが、通称の由来です。酔うのも醒めるのも早かったことから(※)、今で言う「飲み会」ならぬ、「笑気パーティ(laughing gas parties)」が、イギリスの上流階級で好評だった、と伝わっています。
※吸引から30秒で効果が現れ、吸引停止から1分で効果は薄れ、半減期(体内の残存量が半分になる時間)は、約5分とされる。
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19世紀になって笑気が麻酔や鎮静剤として使えると分かり、現代では、世界保健機関(World Health Organization)の必須医薬品モデル・リスト(Model List of Essential Medicines / WHO Essential Medicines List /略称:EML)に収載(しゅうさい)されるほどの、重要な医薬品です。ただし、近年の日本では使用頻度が減っています(※)。
※理由は「より適応が広く、調節の容易な全身麻酔薬が開発された」ため。そもそもの麻酔効果は弱く、補助的な使用が中心。上記のEMLは、入手経路や価格など含め、発展途上国でも使用が容易であることが重視される。乱用問題により、日本では、2016年から指定薬物として、医療用途外の製造/販売/所持/使用が禁止されている。
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実は、従来の医療用途では問題ないのですが、中長期の連続的な使用で、神経毒性が確認されています。逆に言うと、それほど乱用が問題になっていたのです。特に、近年の動画サイトなどで、面白おかしく情報が拡散し、安易な乱用での健康被害が広まりました。世界的にも日本と同様に規制が進んでいます。
話を戻して、一般的な麻酔の詳細は、過去の本コラム第54回を参照いただき、歴史については機会を改めるとして、ここでは2点だけ押さえてください。
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全身麻酔薬の作用機序は、未解明。 |
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ただし疎水性(※)の高さと麻酔効果の強さには、正の相関あり。
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疎水性は、言い換えると「水に対する溶解度が低い」ことです。つまり、作用機序は未解明ながら、水圧によって強引に溶けた窒素の、全身麻酔みたいな効果が「窒素酔い」なのでしょう。
計算上、通常の空気(酸素:窒素 ≒ 1:4)で潜水する場合、水深30 mが、窒素酔いの発症しやすい目安とされています。しかし、前述したように、発症には個人差が大きく、体調にも左右されます。お酒(アルコール)に強くても、関係ないようです。もちろん、潜水する前日の深酒は、以ての外(もってのほか)ですけどね。
実は、窒素に限らず、酸素や水素、その他の化学的安定性が高い気体(=不活性気体)にも、高圧での吸引による麻酔作用が、実験的に確認されています。笑気については、窒素分子に酸素原子が1つ付いただけですが、ざっくり窒素の40倍は水に溶けやすく(※)、さらに脂溶性の強いことが、地上(≒1気圧)で麻酔作用を及ぼすと考えられます。
※笑気(亜酸化窒素)の分子構造は、電子分布が不安定で、窒素より水に溶けやすい(下図右)。
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| 分子の電気的な偏りにより、2つの構造を行き来する。 |
| <窒素分子(左)と亜酸化窒素(右)の構造式> |
窒素などの不活性気体は、お酒(アルコール)と違って生理的な分解は必要ありませんし、浮上するだけで、呼吸と共に排出されます。つまり、水圧から解放されることで(=減圧)、溶けた窒素が血液から抜ける、という訳です。発症には個人差が大きいので、「窒素酔いという症状がある」と知っていれば、自分で気付くことや周囲に気付いてもらうことは容易です。気付いた時点で、安全に浮上すれば問題ありません。
窒素が詰まる!?
ただし、どのように浮上すれば安全なのか?について、当時の人々は、分かっていませんでした。水中で外呼吸をして活動するなんて、根本的な意味で、人類史上、いいえ、陸上生活をする動物史上初の出来事だったからです。それゆえに起きてしまったのが、深く潜ったがゆえの窒素酔いであり、不思議な事故の2種類目、浮上の安全性にかかる減圧症(Decompression sickness)です。
当時は、潜水作業を終えて「よし、戻るぞ!」と急いで浮上したり、あるいは何かちょっとしたトラブルで慌てて一気に浮上したり、が普通でした。すると、浮上後に作業員の何人かが、体調不良を訴えたのです。これも個人差があるものの、どの現場でも生じる上、ついには亡くなる者まで出たとあって、大きな問題になりました。
実のところ、始めに減圧症が問題となったのは、潜水作業に先だって、昔々から続く、土木工事の分野でした。河川(かせん)や海岸で、水底の基礎工事に用いる防水性構造物をケーソン(caisson)と言うのですが、先に説明した高気圧ポンプの開発によって、より深い水底での工事が可能な加圧ケーソン(pressurized
caisson)が作られたのです(図3)。
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| 図3.加圧ケーソンの模式図 |
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(A)排水された水底(作業場)で工事する。作業によって廃棄される、泥/砂/岩石など(muck)は、モックチューブ(muck tube)を通じて、ケーソン外部に排出する。
(B)作業員は、エアロック(airlock)を通って、加圧されたケーソン内に入る。エアロックは、前室を加減圧することで、気圧差のある空間を人や物が行き来できる構造。ケーソン内に入る場合、第2扉の閉鎖を確認して前室に入り、第1扉を閉めて加圧。第1扉の閉鎖を確認して、第2扉を開放し、ケーソン内へ。出るときは逆の手順で。
・水底の基礎工事の後、内部を資材で埋めることにより、ダムや橋脚(きょうきゃく)、防波堤(ぼうはてい)などの基礎構造となり、水中ないし地下の構造物、水底トンネルの構築にも利用される。
・ケーソンは、「箱」を意味するフランス語(caisson)及びイタリア語(casson/ ”cassa(箱)” + ”-one(大きな)”)からの借用語。
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| 参考)https://en.wikipedia.org/wiki/Caisson_(engineering) |
その、加圧ケーソンの中で工事した作業者が、仕事を終えて外に出ると、原因不明の体調不良を発症。当初は「ケーソン病(caisson disease)」と呼ばれていました。そして、ケーソン病への注目に前後して、同様の症状が、海中で長時間の潜水作業を行う者にも見られたのです。共通するのは、短時間での、加圧と減圧。もしかして?と、当時の医学研究者が、動物実験などで、加圧-減圧が及ぼす生理学的な影響を調べると、次のことが分かりました
| 1) |
加圧によって溶解度が上がり、外呼吸で窒素が血中に飽和(ほうわ)、つまり限界まで溶ける。 |
| 2) |
次に、減圧によって溶解度が下がると、血中に飽和した窒素は、限界を越えて溶けきれなくなり、外呼吸で排出される。 |
| 3) |
このとき減圧が早すぎると、外呼吸による排出が間に合わず、血中で気化する。 |
つまり、加圧環境からの急激な減圧によって、血中に飽和した窒素が血管の中で気泡と化(か)し、詰(つ)まって血流が止まるために、下流組織が酸欠で障害されることが、減圧症の原因だったのです。
したがって、治療法は、再度の加圧による、気化した窒素の再溶解が正解です。そこから改めて、ゆっくり時間をかけて減圧することで、飽和した窒素は外呼吸で排出、無事に完治しました。実際には、医療施設の加圧室で高濃度の酸素を吸引させる高気圧酸素治療(Hyperbaric oxygen therapy /略称:HBO / HBOT)が行われています(※)。
※減圧症だけではなく、一酸化炭素などガス中毒を始め、様々な原因による末梢組織から中枢神経までの急性酸欠状態に対する治療や、悪性腫瘍の放射線治療/化学療法による副作用の軽減、皮膚移植後の組織に対する保護などにも適応。保険治療が可能。
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同時に、減圧症の予防法も理解されました。加圧環境から出る時には、充分な時間をかけて減圧すれば良いのです。潜水の場合は、空気の残量に余裕をもって作業を終え、充分な時間を経て、減圧しながら浮上すると、ほぼ減圧症は予防できます。
減圧不要限界と安全停止
より厳密な話をすると、潜水で血中に溶ける窒素と消費する空気の量は、水深(≒気圧)と時間で増加します。さらに、体格や体力、体調、水温、水中での活動内容などが影響します。現在は、減圧症に関する様々な実験や調査から、一定の条件における潜水の限界が分かっていて、アメリカ海軍(United States Navy /略称:USN)の定めた基準が有名です。潜水活動の計画は、これらを加味して計算されますが、基本的に、レジャーでのスキューバダイビングでは、特別な減圧時間の必要ない計画を立てることが原則です。
前回、スキューバダイビングで使う器材として触れた、ダイブコンピューター(dive computer, ※)は、潜水活動の記録と同時に、こうした、ややこしい計算を行い、身体に溶けた窒素の量や排出時間を教えてくれます。つまり、減圧症を予防する専用のコンピューターなのです。
とは言え、ざっくりした計算でも、余裕を持たせることで、存分にダイビングを楽しめます。例えば、標準的なダイビングショップで使うタンク(150~200気圧で10リットル前後)で潜るなら、水深10 mで約3時間半、20 mで約45分、40 mで約9分の潜水活動が、いわゆる減圧不要限界(No Decompression Limit /略称:NDL)、つまり「減圧停止をせずとも、減圧症にならない目安」です。最近は「ノンストップリミット(Non stop limit)」とも言うようですね。
ここまでの話を踏まえて、現在、レジャーでのスキューバダイビングは、水深30 m未満で楽しむことが推奨されています。とは言え、減圧症の発症率はゼロにはなりません。そこで、発症を最小限に抑えるための工夫が、安全停止(safety stop)です。浮上のとき、水深5 mで3分ほど減圧停止すれば、まずまず心配ない程度に、窒素は排出されます。もちろん、何事にも絶対はありませんから、潜水前後は、自身の体調管理に加えて、一緒に潜る指導員の指示に従ってくださいね。
海生哺乳類は深海で酔っ払うのか?
さて、永らく陸上生活を満喫した、哺乳類たるヒトにとっての初体験だった、高圧下での外呼吸。その生理学的な影響について見てきました。進化の過程では、出会う事の無かった環境ですから、身体の仕組みにエラー(error, ※)が生じるのも仕方ありません。
| ※誤差/間違い/過失など、多くの文脈で用いるが、ここでは「不具合」の意。 |
それでは、M.N.さんが憧れる海生哺乳類(marine mammals, 別称:海獣)は、どうでしょうか?
海獣たちは、進化の過程で、一度は陸上生活をしたものの、「やっぱり海が良いかも」と戻った一族です。ですから、元から水棲を続ける魚介類たちに比べて、不完全ではあるものの、水中での生活に適応するべく、次のような特徴が見られます(もちろん種によって、強弱/例外はあります)。
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呼吸器として、肺が残っている。
→ 一定の時間で水面に浮上する必要あり。
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| ・ |
筋肉組織中に、酸素を貯蔵するミオグロビン(myoglobin /略語:Mb, 筋肉の赤色)というタンパク質が多い(陸棲動物の数倍から数十倍)
→ ひと息で、長く深い潜水が可能。
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| ・ |
皮下脂肪が厚い。
→ 水中における断熱効果が高い。
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| ・ |
体毛及び汗線が無く(※)、流線型の体型かつ滑(なめ)らかな体表。
→ 水中移動の抵抗が低い。
| ※逆に、濃い体毛で空気層を確保し、保温を優先する種も有り。 |
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| ・ |
耳介(じかい, pinna, いわゆる外に張り出した「耳」)や外耳孔(がいじこう, External auditory meatus,
いわゆる「耳の穴」)が無い、あるいは縮小している。
→ 水中移動の抵抗が低い。
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| ・ |
下顎骨(かがくこつ, mandible, いわゆる「下顎(したあご)の骨」)と、そこに接する脂肪組織。
→ 骨伝導(こつでんどう, bone conduction)を通じた内耳(internal ear)への伝達で、水中を伝わる音を感知する。
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こうした特徴を持つ海獣たちの中でも、クジラやアザラシの仲間には、1時間以上も息を止めて1000~2000 mほど潜水が可能な種がいるのだとか。よくも、そんな深海までを一呼吸で潜れるものだと思いますが、海獣たちにとって、窒素酔いや減圧症は大丈夫なのでしょうか?
先に解説したように、窒素酔いは、加圧環境で溶解度の上がった窒素が外呼吸で取り込まれ、血中濃度を増したことが原因です。つまり、ひと息で潜る限り、水上で取り込んだ空気の窒素以外に、身体に溶けることはありません。よって、おそらく海獣たちに窒素酔いは無いでしょう。もちろん、誰も確かめたことは無いですし、私たちが「気持ち良いの?」と聞いても、深海の海獣たちが「ふわふわして気持ち良い♪」と答えてくれることは、ないでしょう(笑)。
一方で、減圧症については、一部の個体に見られます(海岸に上がった死骸等から)。どうやら、減圧(=浮上)が早すぎると、脂肪組織に移行した溶存窒素が、血中に溶け戻って外呼吸で排出する前に各組織で気化することがあるらしいのです。おそらく、深海で起きた何かのアクシデント(accident, ※)に巻き込まれ、よほど慌てて急浮上したのでしょう。
※予期せぬ/不慮(ふりょ)の/偶然の、不都合な出来事。事故。
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ただし、水深数 m~数十 mといった、海獣にとって普段の潜水活動では、何事もなく問題無いようです。念の為に言及しますが、一般的なヒトの素潜りでは、そもそも無理な水深ですから無用の心配です。
さすがに、数百 mを超える水圧下に身を晒す行為は、ヒトの想像を遥かに上回る、生理学的な影響が広がっているでしょう。前回に紹介した素潜りの記録では、何でもアリの潜るだけで、214 mでした。スクーバダイビングでは、332.35 mが世界記録だそうです(※)。
※2014年9月18日、アフメド・ガマル・ガブル(Ahmed Gamal Gabr)の記録。訓練に4年、潜降に14分、浮上に13時間36分をかけた。
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とは言え、人類は、既に潜水艇(せんすいてい)によって、地球上の海の最深部まで潜ることが出来ています。もちろん、誰もが気軽に赴(おもむ)くわけにはいきませんが(※)。
| ※2019年4月28日、ヴィクター・ランス・ヴェスコヴォ(Victor Lance Vescovo)の記録。太平洋マリアナ海溝のチャレンジャー海淵(10,925
m)。 |
もし、トンデモない水圧に耐える隔壁で囲い、地上と変わらない気圧を内部に保持できたなら、M.N.さんや私も、特殊訓練せずに、深海を見学しに行けるかもしれませんが、ちょっと難しそうですね。
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