Column
第65回 ワクチンの話 |
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<質問> 先日の「がんと老化」のコラム(第62回、第63回)で、子宮頸がんがワクチンで予防できることにビックリしました。ワクチンって、インフルエンザや新型コロナみたいな風邪っぽい病気を予防するだけじゃないのですね。 というのも、私の親友が子宮頸がんに罹ったのですが、幸い、治療から5年が過ぎて「再発や転移も見つからないから、まずは安心だね」とお医者さんに言ってもらえたそうです。ただ、彼女は子宮を摘出したので、妊娠できないことが、心の重荷になっているようです。 私も不安になって、一度だけ乳がんと子宮頸がんの検診を受けましたが、何も見つかりませんでした。定期的に検診する方が良いのでしょうけど、お金と時間を無駄にしている気もして、つい足が遠のいています。 そんなタイミングで、コラムのHPVワクチンの話を知ったのですが、私はキャッチアップ接種の対象年齢から外れているのです。自費で任意接種となると、何万円もかかるのは……ちょっと躊躇してしまいます。 母親や叔母に、この話をしたら、ワクチンなんて怖いし、必要ないよと言われました。でも、HPVワクチンで、世界中の子宮頸がん患者は減っているんですよね。日本の女性だけ、なぜ……という思いです。 本羅先生、なぜ、こういう”打つべきだけど打たれていないワクチン”が、あるのでしょうか? そもそも国や偉いお医者さんたちが、もっと、しっかりワクチンのことを私たちに教えてくれたらいいのに、と思うのですけど。(東京都 K.M.)
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<回答> HPVワクチンとキャッチアップ接種の現状 K.M.さん、ご質問、ありがとうございます。お友達の治療が功を奏したようで、何よりでしたね。とはいえ、メンタル面は、ご家族やK.M.さんが、暖かく無理のない範囲でサポートしてあげてください。そして、ご自身も、がん検診を一度は受けられたとのこと。結果、何も無くて良かったです。無駄というより「安心を買った」と思ってください。そして「継続は力」。機会があれば再診もご検討ください。 一点、情報を追加いたしますね。本コラム第63回では、HPVワクチンについて「3回の接種が必要で、終えるまでに6ヶ月かかる」と説明したのですが、「ガーダシル」と「シルガード9」というワクチンについては、最短4か月で接種を完了できるそうです。今回のキャッチアップの期限は2025年3月末までですから、ギリギリで11月から始めれば無料の期間に間に合います。周囲に打ちそびれている対象者(注1)がおられたら、教えてあげてくださいね。
ヒトパピローマウイルスと社会への影響 ただ、K.M.さんを含め、対象者以外の任意接種は、なかなかの出費ですよね(ガーダシルで5~6万円、シルガード9で約10万円)。実は、男性も含めて、より広範に接種を進めると、確実に社会からヒトパピローマウイルスを排除・撲滅できます。そもそもヒトパピローマウイルスは、男性に対しても発がん性がありますし(中咽頭がん、肛門がんなど)、多くの男女が接種すれば、感染の連鎖が止まり、悲劇は終幕へと加速するはずです。 一部地域では男性の接種に公的な補助があるようなので、関心ある方は、お住まいの地方自治体で調べてみてください。私も費用の心配が軽減されたら接種に踏み切りたいのですが、残念ながら私の住む神奈川県に補助はないようです。「未病の改善(注2)」に積極的な神奈川県こそ、全国に先駆けて大々的に取り組んでほしいものですが。
さて、日本はHPVワクチンについて世界的に顕著かつ不名誉な例となりましたが、ワクチンを毛嫌いされる方は、世界中におられるようです。歴史を振り返ると、ことの最初から、ワクチン開発は、非科学的な迷信や偏見と闘ってきたとも言えます。 ワクチンの歴史と天然痘撲滅の快挙 ワクチンの歴史に触れるとなると、やはり、天然痘(smallpox)は欠かせません。2024年現在、唯一撲滅されたヒトのウイルス感染症が天然痘であり、史上初の快挙であることは、本コラム第35回で触れました。ヒトに限らなければ、偶蹄類の牛疫(cattle plague)が第2例目ですが(本コラム第59回参照)、今のところ、人類が完勝したウイルス感染症は、これだけです。 単なる偶然ですが、”牛”つながりの、この2つ。そもそも、ワクチン(vaccine)の語源がラテン語のVacca(ワッカ/雌牛)で、天然痘のワクチンである種痘(Smallpox vaccine)が、乳牛を世話する女性から分離された牛痘(cowpox)に由来することや、牛痘がヒトにとって弱毒な天然痘類似の疾病であることを、ご存じの読者も多いでしょう。しかし、本コラム第40回の注3で触れたように、後年、牛痘ウイルスと天然痘ウイルスの間に交差免疫(注3)が無いので、種痘と牛痘ウイルスは別種と分かりました(注4)。
種痘と牛痘法の原理 そもそも、古代より人類を苦しめていた天然痘は「回復すると二度と罹らない」ことが知られていました。そして経験的に、軽症な患者の膿を乾かしたものや瘡蓋を使って人為的に感染させる「人痘法」での予防が行われていました(今でいう「生ワクチン」)。ただし、元が”高病原性”ですから、重症化し、死亡する者も多かったようです(数十人に1人)。 危険性の高い「人痘法」に代わる、より安全な天然痘の予防法を目指して、注意深い観察と綿密な試行錯誤を18年も繰り返したのが、エドワード・ジェンナー (注5)でした。しかしながら、当時の噂話~雌牛から牛痘をうつされた酪農家は天然痘にかからない~を真に受けて、カンや何となくで取り組んだわけではありません。 生まれ故郷の田園都市で、開業医として、つぶさに住民の健康を見守っていたジェンナーは、地域の酪農家が罹患する牛痘や、牛痘にかかった者が天然痘の感染を免れていることを良く知っていました。それを科学的に検証したのです。実は、ジェンナーは、臨床医であると同時に、当代一流の科学者でした。
ちなみに、ジェンナーは、自身の息子も開発中のワクチンで試験しました。ただし、その時に使った豚痘(swinepox)では成績が不安定だったので不採用でした。もし、これで成功していたら、今頃、予防接種はワクチンでなく、ポルクチン((ラテン語)雌豚:porca)だったかもしれませんね。冗談はさておき、種痘の成功例、第1号は、ジェンナー家の庭師の息子、8歳の少年ジェームズ・フィップス(James Phipps)でした。ジェンナーは、まず牛痘の女性サラ・ネルムス(Sarah Nelmes)の膿をフィップスに植えました。フィップスの軽快を確認してから、天然痘の膿を植えたところ、発症しなかったのです。ここに牛痘法が完成しました(1796年)。 牛痘法の効果は目覚ましく、ヨーロッパ中の評判は相当なものでした。当時のフランスで最高権力者だったナポレオン1世(ナポレオン・ボナパルト:(仏)Napoléon Bonaparte,1769-1821)は、英国と戦争中だったにもかかわらず、敵国人のジェンナーを絶賛して、勲章を授けたほどです。余談ですが、当時のフランスで、学術調査中の英国人学者2名がスパイ容疑で捕らわれました。彼らの釈放嘆願書がナポレオンに届くも、一瞥して無視。ところが、差出人の名を確認して、絶句。こう叫んで、2人を放免したそうです。 「ジェンナーか!あの男の頼みなら、何一つ断れない!」 ジェンナーは種痘で自身の利益を求めず、研究結果や方法を余すところなく公開しました。それは「人痘法」で儲けていた一部の医師達からの反感を買いました。また、ジェンナーの死後、英国では人痘法の禁止や種痘の義務化が始まり、違反者への締め付けが厳しくなると、ワクチン反対運動が増えたようです。科学的にはジェンナーが圧勝ですが、彼の功績に対する反感は増しました。一方で、世間は迷信や偏見にまみれていました。曰く「体を傷つけ牛の汁を体内に入れるなど、角や尾が生え、声が牛になるに違いない」と言った具合です。それに対しては「神様の乗った牛から与えられた聖水だから、安心だよ」と、信仰に沿って諭したと伝えられています。 ワクチン反対運動の始まりと社会の偏見 こうした迷信や偏見は、遠く離れた日本にもありました。当時は、緒方洪庵をはじめとする蘭学者たちが牛痘の普及に努めましたが、新興勢力に怯える本草学者や漢方医達の反感、そして民衆に広がる迷信や偏見には、ジェンナーたちと同じく苦労したようです。そして、それを打ち破る方策も、また同じでした。ワクチンを「白神(はくしん)」と音訳し、錦絵「牛痘児の図」を配ったのです(図2)。「天満大自在天神(注8)」にあやかり、白牛に跨る童子「牛痘児」が鬼の姿をした天然痘「疱瘡神」を退治する図柄に、民衆は喝采しました。牛痘児の構えた槍の先が、種痘を接種する二股の針になっているところなど、子供たちを怖がらせず、奮い立たせるよう、細かいところまで配慮されています。
ジェンナーは、種痘という科学の力で天然痘を撲滅できると著書で予言しました。実際、およそ200年かけてジェンナーの予言は成就しましたが、ご本人の控え目な性格が災いしたのか、祖国イギリスを含め、そこまで英雄扱いはされていないようです。確かに、ジェンナーの開発した「ワクチン」は、当初から「牛痘法」を意味するのみで、現代における「予防接種」、つまり「人工的に病原体の免疫をつける疾病の予防法」には少し届きません。もちろん偉大な一歩です。ただ、偉大過ぎて、次に踏み出すのは、90年以上の歳月と科学の進歩、そして天才2人の登場~コッホ(注9)とパスツール(注10)~を待たねばなりませんでした。
パスツールの研究歴を辿ると、その天才性に驚きます。有名な「白鳥の首フラスコ」の実験では「生命の自然発生説」を完全否定し、空気中の微生物が食物を腐らせたことを見抜きました。そして、微生物の混在が食品を腐敗させることから、ワインや牛乳の「低温殺菌法」を開発します。そこから「病原体としての微生物」という概念に至り、外科手術における清潔さの重要性と消毒法の開発を補佐します。さらに、弱毒化した病原体(偶然、培養に失敗した細菌)を取り込むことによる獲得免疫の発見、つまり現代的な意味での予防接種、ワクチンの開発へと展開するのです。 一方で、コッホは、疾病と病原体の因果関係を証明する条件として「コッホの原則(注11)」を提唱、本コラム第41回で触れた結核菌を始め、様々な病原体となる細菌を発見して純粋培養を行い、その病原性を証明しました。
こうして、人類は、ワクチンによる疾病の予防という強力な盾を手にしたわけですが、ここからワクチンに反対する人々についても見ていきます。 先に触れた「人痘法で儲けていた医者」や「蘭学を恐れる本草学者や漢方医」のように、自分の既得権益に抵触するため、新しい方法を拒絶する人々。これは、ある意味、とても分かりやすいですよね。しかし、どうも社会の中には、突拍子もない発想で恐怖を感じる人たちが、迷信や偏見に惑う民衆だけでなく、一般に「教養がある」と呼ばれるような人々の中にも(時には医師ですら)いるようです。 例えば、種痘が開発された当事国である英国では、当初から、強烈な反対運動がありました(図3、図4)。
MMRワクチンと水銀に関する誤解 時代は進んで、現代社会では、もう少し科学的(?)に、ワクチンに反対しているようですが、控え目に言って、ほぼデマです。ワクチンに関するデマには幾つかパターンがありますが、特に社会的なインパクトが大きかったものとして「ワクチンには水銀が含まれていて、自閉症の原因になる」というものがあります。これまで、殺菌を目的としてワクチンに微量の水銀が含まれていたことは事実です。しかし本コラム第24回を始め、何度か触れていますが、そもそも、あらゆる物質は毒で、それは量で決まります。 余談ですが、「妊婦が控える食材」の中に幾つかの海産物があって、その理由が「水銀」です。海には、濃度の物凄く薄い水銀が含まれていて、微生物を餌とする小魚、それを餌とする成魚やイルカ/クジラと、いわゆる生物濃縮(Bioconcentration)によって、体が大きくなるほど体内の濃度が上がります。ですが、それでも微々たるものですし、通常、私たちが食するに栄養価のメリットこそあれ、何の問題もありません。しかしながら万一のため、神経系の発達に対する影響、つまり「胎児」に配慮する目的で、妊婦に注意するよう呼び掛けているのです。それ以外の、乳幼児を含む子供から大人までは、美味しく召し上がってください。 ワクチンに話を戻すと、含まれる水銀は、マグロの握りずし一貫で、なんとワクチン12回分と同じ量です。しかも、ここで問題とされる、ワクチン殺菌用のエチル水銀(化学式:CH3CH2HgCl/ CH3CH2HgOH)は、海産物に含まれるメチル水銀(化学式:CH3HgCl / CH3HgOH)の数百倍も弱毒性です。ワクチンの水銀ごときを問題にするなら、私たちは、寿司屋さんや海鮮居酒屋に行けません。個人的には、クジラやイルカたちが、水銀中毒で問題になっていない時点で、心配しすぎだろうと判断しています。 ウェイクフィールド事件とワクチンデマの広がり そして、水銀と自閉症にも、何ら関係はありません。すでに科学的な論争も決着し、結論は「デマ、かつ悪質な詐欺」でした。論争の元になったのは、アンドリュー・ジェレミー・ウェイクフィールド(Andrew Jeremy Wakefield / 1956- )による1998年の論文です。当時ロンドン大学に在籍していた医師ウェイクフィールドの、有名な医学誌ランセット(Lancet)に掲載された論文の内容は、「健康で正常発達の子供たちが、MMRワクチン(麻疹・流行性耳下腺炎・風疹混合ワクチン)の接種後、慢性腸炎と自閉症になった可能性がある」という報告でした。背景から説明すると膨大な量になるので、ここでは以下、問題点を簡単に列挙します。 ●研究に関して倫理委員会の審査を得ていない(別の研究の審査を流用した)。 ●病院の紹介(患者の自主的な参加)ではなく、著者が集めた患者のデータだった。 ●その患者は反ワクチン団体の薬害訴訟目的で登録されていた。 ●論文の公表前に弁護士がデータを訴訟の正当化に使った。 ●同団体から研究資金を得ていた上、MMRワクチンに代わる別のワクチンの特許を取ろうとしていた。 ●そもそも患者の子供たちはMMRワクチン接種前から自閉症傾向だった。 ●さらに検査結果のデータも捏造・改竄されていた。 ウェイクフィールドの主張は、他の研究者で再現性が取れず、彼自身も要求された再試を拒絶し、退職して渡米しました。調査を進める内に上記の問題が明らかになるにつれ、掲載誌のランセットは論文を虚偽と判断(2004年)、あまりに悪質な不正に、最終的には論文を完全撤回しました(2010年)。調査結果を受けて、同年、英国の医事委員会(General Medical Council / 開業医登録と管理機関)は、ウェイクフィールドから医師免許を剥奪しています。最近では、アメリカの反ワクチン団体に参加して、自身の経験を「医学と政府に逆らい、人道的な活動を封じられた殉教者」として英雄視させているようで、2016年には、MMRワクチンと自閉症の関連を印象操作する映画を製作しました。映画の公開された地域では、ワクチンの接種率が下がっているといいます。幸い日本では一般公開を避けられましたが、一部で上映されたようです。 ワクチンの意義と誤解の払拭 ワクチンは、具合の悪い時に処方される医薬品と異なり、健康な時に予防効果を期待するものです。そういう意味では効果が分かりにくく、人類史の中でも特に現代的で、かなり理性的な処方と言えるのかもしれません。それだけに、人によっては感情的な反発も大きいのでしょうし、分からないことに不安を覚えても仕方ないと思います。しかしながら、そうした反発や不安を煽ることで、金儲けを企む悪しき輩のいることは、これもまた、極めて現代的な現象なのかもしれません。 将来的に、理性を促すクスリが開発されるまで待っても良いですが、そのときには「反・理性団体」からの反発が起きるのでしょうか。 |