Column
| 第78回 抗菌薬と薬の歴史(後編) |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| <質問> 本羅先生、こんにちは。この間、いつも元気いっぱいの祖母が、何年ぶりか分からないほど久しぶりに風邪気味で、まさか新型コロナに感染したか、いや百日咳か!?と、慌てて病院に連れて行きました。幸いにも色んな検査は全て陰性で、ただの風邪だったようです。ホッとしました。 処方箋をいただいて、薬局に立ち寄った帰り、どうも祖母がプリプリと怒っていて、「どうしたの?嫌なことあった?」と尋ねると、 「なんだい、あの病院の先生は。薬を出すのをケチってんじゃないかねぇ。全然、少ないよ。ほら、抗生物質とかさ、解熱剤とかさ、何もないじゃない。昔は、もっといっぱい薬を貰ったのよ?」 と、まくし立てました。私が、 「えぇ、何それ!? おばあちゃん、そもそも、そんなに熱は高くないよね(苦笑)。薬もタダじゃないんだし、飲まずに済むなら、その方が良くない? 」 と答えたのですが、イマイチ納得いかないようで、ブツブツ言いながら帰宅しました。ていうか、おばあちゃんの若い頃は、風邪くらいで、そんなに、お薬たくさん出ていたんですかねぇ……。むしろ私は、あまり飲みたくないのですけど。 そういえば、本羅先生はコラムでお薬の飲み方を注意されていましたね(第74回)。お薬の話、もう少し詳しく聞いてもいいですか?(東京都 I.K.)
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| <回答> 本コラム初の長編回答、ようやく後編です。まずは、初めにお詫びから。前回の宣言は撤回します……。私の筆力が足らず、完結編は、次回に持ち越しです。 では、気を取り直して、前回までのおさらいから。 医学と薬学の起源 ― 古代から中世へ 賢いおサルさんは食用と別に、薬となる植物を知っています。ましてや進化した人類だと、遥か数万年前の「先史時代(Prehistory)」でも、優れた外科手術を使いこなす者もいました。人々の集落は都市へと膨らみ、古代文明が勃興(ぼっこう)。文字で記録を残す「有史時代/歴史時代(Recorded history / written history)」が始まり、人々は「ユーラシア(Eurasia, 現代、地上最大面積の陸地)」の東西で数千年の文化/文明を醸成(じょうせい)しました。 ヨーロッパでは、エーゲ海に端を発する「古典古代(Classical Antiquity, 古代ギリシア/ローマ)」が中心となり、古代オリエント(Ancient Orient, エジプト/ペルシア/メソポタミア)とアジアの一部が一体となって、ヘレニズム文化(Hellenism, ギリシア主義)を謳歌(おうか)します。ここで現代に通じる科学の風が舞い、医学/薬学は新芽を吹きました。そこに、北方(現ヨーロッパ中央部)からゲルマン人が押し寄せ、時代は中世に。そして、「神の奇跡(miracle/wonders/signs)」や「隣人愛(charity)」を説くキリスト教が、中世ヨーロッパの医学/薬学に軛(くびき,(注1))をかけました。
実は、ローマ帝国でキリスト教の正統派争いが激化し、異端派/異教徒の迫害/追放と同時に、キリスト教に無関係な学問まで異端視したのです。古典古代から続く、名門教育機関は軒並(のきな)み閉鎖されました。かろうじて、修道院の図書室に、一部の医学書/薬学書は残されましたが、多くは散逸(さんいつ)。病を癒す術は、祈祷(きとう)や儀式が中心となりました。 古典古代の芳花(ほうか)は、発祥の地たるヨーロッパで萎(しお)れましたが、その種苗(しゅびょう)は、イスラム文化圏(cultural area)に植え継がれます。異端派キリスト教徒と学者たちが逃れたのは、ローマ帝国の東方、ペルシア地域。ここは、中世を迎える少し前から、新興勢力のムスリムたち(イスラム教信徒)が国家を構(かま)えていたのです。イスラム勢力は、西アジアを中心に猛烈な勢いで領土を広げました。ただし、異教徒の学者/専門家は条件付きで招き、異文化の知識を積極的に取りこんだのです。結果的に、先行する文明/文化のバトンを後世へ受け渡す役を担(にな)いました。 ここから、後編です。改めて、中世における医学/薬学を見ていきましょう。
病院と医療制度の成立 前回の最後と重複しますが、まずは、私たちも病気や怪我でお世話になる「病院(hospital)」から。もちろん、古代から病気を治療する施設はありましたが、現代的な病院の原型は、中世ヨーロッパの修道院に隣接する「施療院(hospice, せりょういん)」です。ただし、その主たる目的は、宗教的な動機(隣人愛の実践)による困窮者/貧困者の補助と介護でした。先にも触れましたが、聖務とはいえ、修道者の医療は稚拙(ちせつ)なものです。 一方、イスラム社会では、異なる様子。イスラム教団は、設立当初に国家的/政治的な体裁が無く、武力で倒しましたが、相手であるササン朝の組織や制度、地域社会、文化、全て丸ごと受け継いで自らの国家としたので、自らに無い専門職の信仰は問いませんでした。おかげで、異教であるキリスト教徒の施療院の開設も円滑(えんかつ)です。異端派とはいえ、同じキリスト教。基本は、病に苦しむ地域住人への奉仕でした。ところが彼らの使う「古典古代/ヘレニズム文化の医学/薬学」の周囲には、宗教的/呪術的なイスラム伝統療法を始め、当時のペルシアで主流だったインド医学「アーユルヴェーダ(Ayurveda, 本コラム前々回参照)」や、他にもエジプト、中国、様々な医療が軒(のき)を連(つら)ねます。出自は違えど、患者を癒(いや)したい想いは変わりません。これら、東西医療の混交した結晶が「ユナニ医学(Unani medicine)」、現代に残る伝統医学の一つです(「ユナニ」はペルシア語/アラビア語で「ギリシア」の意)。さらに、東西文明との交易で薬種が増え、調剤技術や品質の鑑定/管理が、現代に比肩(ひけん)するほど発達しました。イスラム薬種商たちの仕事内容は、現代の薬剤師(米語:pharmacist /英語:chemist)に迫(せま)るでしょう。 こうして、イスラム社会の「施療院」は、「キリスト教施設に隣接する診療所」から、「薬局(Pharmacy)」を併設する、現代的な「病院(hospital)/総合病院(medical center)」に様変わりします。さらに、イスラム社会の富裕層/指導者による「イスラムが『完全な一神教』であること」を証明する文化政策が重なりました。それを実現するため、イスラム社会の病院では、最先端の医術を求める医師/学者/学生が集まり、東西の文献をアラビア語に翻訳して研究したのです。医療を実践する場であり、教育施設を兼ねる、大規模な学術研究施設への発展は、まるで「大学病院(university hospital)」です。このような、医学校と研究所を兼ねる複合医療施設が、イスラム国家の各都市に数多く作られました。また公的に薬局と薬種商を監督する制度も作られました(後世、この仕組みは西欧で参照され、取り入れられます)。 ただし時代が進むにつれ、伝来初期の書籍を重んじる権威主義(Authoritarianism)となり、ヒポクラテスの「四体液説(humorism)」やガレノスの「瀉血(Bloodletting, しゃけつ)」に疑問を抱(いだ)く者は現れつつも、覆(くつがえ)すには至りませんでした。イスラム文化でも、遺体解剖を忌避(きひ)したから、かもしれません。 とはいえ、イスラムに吹いた学問の薫風は、「バクダッド(Baghdad, 現イラク共和国の首都)」で、世界史に名を刻む総合学術研究施設、「知恵の館(House of Wisdom/Bayt al-hikmah, バイト・アル=ヒクマ)」の建設に至ります(8~9世紀)。バクダッドは、古代メソポタミア文明に遡る歴史を誇り、「唐(中国王朝, 618~907年)」の首都、100万人都市「長安」と並び栄える、当時、世界最大の都市でした。残念ながら、13世紀半ばにイスラム国家の政情が揺らぎ、モンゴル帝国(Mongol Empire, 1206~1635年)がユーラシアで覇権(はけん)を拡大してペルシア地域に来襲、バクダッドの壊滅に巻き込まれて、膨大な蔵書ごと灰燼(かいじん)に帰(き)します。しかし、それまでは、史上最大規模の図書館/翻訳センター/天文台など兼ね備え、文系理系、様々な学問が進展しました。
錬金術と化学の誕生 中でも、「知恵の館」で興隆した、興味深い学問があります。それは「錬金術」です(注2)。実は、怪しいイメージ(image, 印象/心象)と裏腹に、歴史は古代に遡(さかのぼ)り、高温の炎(炉の工夫)と冶金(やきん, 金属の精製/合金の調製)の発明、ガラスの発見、そして染料の開発が、ルーツ(roots, 発祥/起源/由来/先祖/故郷など)です。
火・冶金・文明の発展 遺跡からして、ヒト(homo, ホモ族/ヒト属, 英語”human”のラテン語)の生活に、火が灯(とも)ったのは、少なくとも70~80万年前です。とはいえ「自在に火を起こす」ようになったのは、約10万年前の人類(homo sapiens)からですし、「金属/ガラス」の融解/加工は、紀元前3000年頃のメソポタミア文明/エジプト文明(本コラム前々回)以降です。つまり、都市化と文明の発祥は「冶金の発明/ガラスの発見」と時期を重ねます。火と同じく、見つけた最初は偶然でしょう。ですが、強い炎と金属/ガラスを手にした人類は、扱いの危険と共に歩みつつ、染色/装飾/器具など、様々な文化/技術を産みました(武器も含)。各々の文明/社会/集団/文化/価値観は違っても、石に混じりキラキラ光る金属、特に貴金属の「金/銀」は、古代人を魅了したのでしょうね(現代人も同じ?)。 石器や木細工のように、叩き/割り/削るといった「形を変える」こととは違う、金属加工や化学反応は(当時は無い言葉ですが)、色彩/光沢/硬軟/軽重といった「性質を変える」ことの不思議な魅力があります。錬金術に人類がハマったのは、こうした素朴な神秘性が背景にあるのでしょう。イスラム文化が、実用と合理を突き詰めて取り組んだ錬金術でしたが、その目的(金の錬成)は叶えられませんでした。しかし、イスラムが預かり育(はぐく)んだ、種々(しゅじゅ)の学問に添えて、中世ヨーロッパに流れ込みます。 中世ヨーロッパ社会と医療 その中世ヨーロッパですが、5世紀後半からは、ローマ帝国領に侵食したゲルマン人を主軸に展開します。ギリシア人のローマ帝国は、西半分を制圧され、東側も勢いを失いました。7世紀以降は、勢いを増したイスラム軍の西進で、地中海南岸の領地、北アフリカ(North Africa)が奪われます。このイスラム勢力の拡張は、西欧のゲルマン人にも影響しました。地中海中央に位置する歴史的要衝(ようしょう)であり、イタリア半島の南西に近い、地中海最大の島「シチリア島(Sicily, シシリー/シチリー/シシリアとも)」や、ヨーロッパ南西端のイベリア半島(Iberian Peninsula, 現フランス共和国/スペイン王国/ポルトガル共和国など)に建国していたゲルマン人が、イスラム勢力に追いやられたのです。 改めて、ローマ帝国領に移民してきたゲルマン人の多くは、ヘレニズム文化を好み、キリスト教を信仰しましたから、版図(territory, はんと, 領土/勢力範囲)を広げる西欧各地では、教会や修道院が増えました。修道院は、修行に勤(いそ)しむ宗教施設であり、同時に「地域社会における文化の中心」でもあります。特に「修道院の庭(Monastic garden)」は、花卉(かき,観賞植物)の園芸を楽しむ、憩いや娯楽の庭園に留まらず、野菜/果樹/香草/薬草(薬用植物)の農場でもありました。また、修道院には施療院の他にも学校が併設され、本コラム前回に触れた、リベラルアーツ(liberal arts, あるべき市民の基礎教養)をラテン語で教えました。 10世紀の西欧は、社会構造の安定化で人口が増え、鉄器の生産増と気候の温暖化が背を押し、農地拡大からの生産量増大で、商工業が熱を帯びます。また、イスラム国家の侵攻とイスラム商人は別で、彼らを通じた遠隔地交易が盛んになりました。ヨーロッパ側の交易商人たちは、西欧各地で経済的実権を握り、貴族領主と渡り合って、自治権を有する自由都市を発展させます。さらに相互扶助を目的とする組織「商人ギルド(guild Merchant)」を作り、地方行政を牛耳(ぎゅうじ)りました。一方、薬種商たちは、香辛料を扱う交易商人と利権を争います。他の工業者たちと同じく、都市住民としての発言力を求めて「手工業ギルド(craft guild, 同職ギルドとも)」を作りました。徐々に、平民たちの社会的な声が、大きくなります。 レコンキスタと知の逆流 11世紀に入ると、余力を蓄えたキリスト教徒が、イスラム国家を押し返しました。いわゆる「レコンキスタ(注3)」や「十字軍(注4)」です。ただし、7世紀に聖地「エルサレム(注5)」を制圧したイスラム国家は、キリスト教徒やユダヤ教徒の同地住民に追放や改宗を強制していません。ジズヤ(Jizya, 人頭税)など制限は付けつつ、巡礼(pilgrimage)も邪魔しませんでした(※)。つまり、宗教的な弾圧を覆(くつがえ)すというより、溜(た)まった西欧社会の活気や鬱屈が外に溢(あふ)れたのでしょう。
11~13世紀の、キリスト教徒とイスラム勢力の攻防は、西欧社会で一度は霧消(むしょう)したヘレニズム文化が、イスラム文化から逆輸入される機会でもありました。窓口は、先に触れたイベリア半島とシチリア島です。そこには、様々な学術文献が、イスラム文化人に持ち込まれていたのです。「知恵の館」で、ギリシア語からアラビア語に翻訳された、ヘレニズム文化の粋である、ヒポクラテスやガレノスの医学書など。これらアラビア語の文献が、今度はキリスト教徒のゲルマン人によって、ラテン語に翻訳されました。イスラム文化に刺激されたゲルマン人は、改めて、ヘレニズム文化を再発見し、自分たちのルーツと学究心に触れたのでしょう。11世紀に開校した、西欧最古の総合大学(※)「ボローニャ大学(University of Bologna, 現イタリア)」を皮切りに、西欧各地で、修道院に併設された学校や、学生と教師による私塾のような同職ギルドが核となって、現代に名を馳せる名門大学が次々と建設されます。
蒸留技術と薬学への応用 逆輸入された、アラビア語の学術文献の中には、「錬金術」もありました。怪しげな話ではなく、とても重要な「化学」の知識と技術です。特に、「蒸留(じょうりゅう, distillation)」は重要です。液体を加熱し/蒸発した気体を集め/冷却して液化する。この現象と技術は、物質(液体)による「沸点(boiling point, ふってん/物質が気体になる温度)」の違いを利用して、混ざり合った異種の液体を分離/精製できます。 簡単には、蒸留水です。汚れた水を沸騰させて湯気(水蒸気)を集め、冷やして出来た水滴をポタポタと集めると、純水に近い清潔な水が得られます。これ、色々なものが溶けた水溶液から、水を分離/精製したわけですね。 イスラムの錬金術者は、ワインを蒸留して、エタノール(ethanol)/エチルアルコール(ethyl alcohol,)を抽出しました。ここまで読まれた皆さんなら、すでに察しがつくでしょう。アルコール(alcohol)の語源は、アラビア語です(al-kuhl)。クール(kuhl)の原義は、鉱物から作られた化粧品「眉墨(まゆずみ)の粉」ですが、転じて、錬金術用語で「熱して分離する操作全般」を意味するようになりました。西欧には、ワインの蒸留法と得られたエタノールの形で伝来したことから、「蒸留物としてのエタノール」の意味に転じたと思われます。ちなみにムスリムの飲酒は、ハラーム(haram 禁忌/非合法)です。コーランの記載では、お酒に酔っての失敗を具体例に戒(いまし)めていますから、「厳密な忌避」か「非公式の容認」かは、歴史的な地域差があるようです。ただし、同地域のユダヤ人やキリスト教徒が宗教上の理由でワインを製造/交易していましたし、飲用と別に、錬金術的な使用(香水/薬の調製)ですし、イスラム社会での購買は普通だったのでしょう。 蒸留された高濃度アルコールは、西欧では、ラテン語で「アクア・ヴィータ(aqua vitae, 命の水)」と呼ばれました。サラサラして透明で水のよう。でも、火が点きますし、一口飲めば、身体がカッと熱くなるのです。体質的に酒を飲めない人は別にして(本コラム第67回)、酒に強い人の多い西欧人にとっては、強壮剤の一種と感じたのかもしれません。現代における、アルコール度数の高い蒸留酒(Liquor / spirits)の元ですが、「スピリッツ(spirits, 精神/霊)」と呼ぶのは、錬金術的な意味で、ワイン(身体)から分離/精製された「精神/霊」、と考えたからでしょう。一方、「リカー(Liquor)」と呼ぶのは、ラテン語の「リケファケレ (Liquefacere, 溶け込ませる)」に由来します。古代ギリシア時代のヒポクラテスが、ワインに薬草を浸したり、調合した薬を混ぜて飲ませたりしていましたから、高濃度エタノールに薬物/薬草を溶かすという発想は、西欧人にとって当然なのでしょう。そうして作った薬液を「リキュール(Lqueur)」と呼んだのも納得です。もちろん「百薬の長」であっても、現代では病人に与えませんけど、ね。 つまり、私たちの愛飲する蒸留酒が生まれたのは、錬金術のおかげです。ウイスキー(英語:whisky/米語:whiske)は、ゲール語/アイルランド語「ウィシュケ・ビャッハ(uisce beatha, 命の水)」の転訛(てんか)ですし、ブランデー(brandy)は、 オランダ語「ヴランデウェイン(brandevijn, 焼きワイン)」の転訛で、フランス語ならそのまま「オー・ド・ヴィー(eau-de-vie, 命の水))」、ウォッカ(vodka, ウォツトカとも)は、 ロシア語で「ちょっとした水」の意味です。いずれ「アクア・ヴィータ」に由来します。 医薬分業と薬剤師の誕生 錬金術の伝わった当時、蒸留に積極的だったのは、修道者たちでした。「修道院の庭」の果樹園で作ったワインから「アクア・ヴィータ」を蒸留し、栽培した薬草や香料を溶かしこんで、「長寿/救命薬としてのリキュール」を作ったのです。今でも、フランス産の「ベネディクティン(Benedictine)」や「シャルトリューズ (Chartreuse) 」は有名ですね(私も大好き)。こうした、有名な修道院リキュールの多くは、製法/材料が門外不出で、最上級の銘柄には「エリクサー(elixir, エリクシール/エリクシア/イリクサとも)」を冠します。これ、先に注2で説明した、狭義の錬金術で使った比喩表現 ~ 病の人を癒すがごとく、不完全な卑金属を完全な貴金属にする「アル=イクシール(霊薬)」 ~ が、「人の病を癒す霊薬」に反転している例証です。いずれにせよ、経験的な薬草の薬効成分を高濃度エタノールに溶かして分離するという発想が、近代薬学の扉をノック(Knock)したことは間違いありません。実際、現在の日本薬局方(Japanese Pharmacopoeia)には「エリキシル剤」の定義が記載されています(※)。
そして西欧では、再び手にした「古典古代/ヘレニズム文化の医学/薬学」を蒸留して精製するがごとく、錬金術の化学的な要素で医療を実践する「イアトロ化学(iatrochemistry)」が盛んになりました(イアトロス(iatros)は「医師/医学」を意味する古代ギリシア語)。錬金術の秘術/霊薬を「賢者の石」と意訳し、万能の医薬品「普遍医薬」を探し求めたのです。ただし、世界各国の伝説/神話に、不死の霊薬/神様の飲み物はあります。古代から変わらぬ、人の想いなのかもしれません。 実は、イスラム文化の頃から、錬金術の業界では、その内容を「理解できる者にだけ伝わる」「分かりにくい秘密」にしようと、台所用品や調理道具、別の分野の言葉などで記述することが“お約束”でした。後世に怪しいイメージで伝わった原因でもありますが、贋金(にせがね)づくりのような安易な悪用を防ぐ、錬金術師の良心だったようです。 そう言えば、最近の漫画やアニメ作品で、よく目にする「ポーション(potion)」は、ラテン語の「飲む(potio)」に由来する言葉で、惚れ薬に回復薬から毒薬まで、いわゆる飲み薬を意味しますが、実際に中世の西欧各国で売り歩かれた「魔法/魔術で作られたポーション」は、詐欺師の怪しい偽薬ばかりでした。13世紀には、不正/過剰/無意味/有害な医薬の処方を禁じるため、医師による薬局の経営を禁止し、死と病を診断する医師から、調薬と管理を取り上げ、分業化が始まっています。これが、現代的な意味での医薬分業(Separation of prescribing and dispensing)、薬剤師の始まりと考えられています。 明るい空気は、14世紀に一転しました。初頭数年の悪天候(厳しい冬/長雨による寒い夏)で農産物が不作、前世紀までの急激な人口増を賄(まかな)えない、大規模な飢饉(ききん)で、家畜も人も飢えに苦しみます。そして、何とか乗り越えたところに、西欧を分断する長い混乱が始まりました。「百年戦争(注6)」の勃発です。さらに、逃げ惑(まど)う人々を「黒死病(注7)」が蹂躙(じゅうりん)します。当時、黒死病の治療法や薬は無く、正確な統計はありませんが、西欧人全体の1/3が亡くなり、人口の過密な都市では、住民が半減したと言われます。
暗い世を照らせぬ領主や宗教指導者の権威は地に落ち、あまりに身近な「死」を達観した人々は、来世/理念/精神性より、目前の改良/改善に集中したのでしょう。危機に際して、権威を脇に除(よ)け、世界を見つめなおす人間の力が、ルネサンス(※)を起こします。舞台は、シチリア島の目前、現イタリアです。
ルネサンスが始まったのは、西欧最古のボローニャ大学から南に100km、動乱の14世紀でも遠隔地交易/製造業(主に毛織物業)/金融業で栄えた「フィレンツェ(イタリア語:Firenze/英:フローレンス(Florence))」です。その背景には、経済力と知的な蓄積がありました。さらに大きな知的/文化的支援も加わります。百年戦争の終わる直前、イスラム勢力が東ローマ帝国を滅ぼしたため、ヘレニズム文化の御本家、ギリシア人学者たちがフィレンツェに避難したのです。経済面では、フィレンツェを支配した銀行家/政治家の一族である、メディチ家(House of Medici)のような、優れた才能に援助を惜しまぬパトロン(patron, 後援者/財政支援者)が、ルネサンスの「自由(※)」を支えたと言えます。
ルネサンスが始まると、続く15~16世紀には、「ダ・ヴィンチ(注8)」や「ミケランジェロ(注9)」に代表される、著名な芸術家を始め、数々の才人/賢者が活躍しました。博学多才、様々な事物に通じて優れた学識を持つ、「万能の人/普遍人(universal person)/博学者(polymath)」が、ルネサンスの理想です。カトリック教会も「かつて異端視した学術」に対する宗教的統制を弱めました。改めて、西欧に科学の風が舞い、医学/薬学が芽吹きます。実際、医学的には、この時期にダ・ヴィンチらが遺体解剖するなど、解剖学が発展しました。ただし、女性は大学に入学できず医師になれないため、修道女あるいは薬剤師ギルドの徒弟制度(親方と弟子の関係)で学びました。とはいえ、男性医師より医療センスが良く、地域住民から信頼されて、儲けた者も多かったのだとか。
自由を重んじても、多くはカトリック教徒。ルネサンスは、キリスト教社会との対立や否定ではなく、むしろ宗教的世界観の再解釈、あるいは純粋化と更新でした。実際、16世紀後半で最大のパトロンは、ローマ教皇です。ただし、社会的には激動しました。「プロテスタント(Protestant)」が「カトリック教会(Catholic Church)」を批判、分離したのです(宗教改革(Reformation))。 ルネサンスにおける最大の功労者は、ドイツのグーテンベルク(ドイツ語: Gutenberg)かもしれません。彼は、15世紀に西欧で初めて、金属活字による「活版印刷(letterpress printing)」を事業化しました。つまり、聖書や聖職者の文言を印刷、大量の製本を始めたのです。これは、情報革命でしょう。それまで本の増刷は、図書館や修道院に設置された書写室(しょしゃしつ)で、借りた本を手でコツコツと書き写すのが基本でした。グーテンベルク個人の事業は失敗でしたが、金属活字の活版印刷は、ヨーロッパ中に広がって、ルネサンスを加速したのです。 中国(唐)で発明された印刷技術が西欧に伝わったのは、イスラムの「知恵の館」を焼いた、13世紀半ばのモンゴル軍がきっかけと考えられています。最盛期のモンゴル帝国は、領土全域の人口が1億人に達し(当時の世界人口で半分強)、ユーラシアを横断する版図を広げました。彼らの侵攻は、現ドイツの手前まで達しています。モンゴル帝国は、その拡大に沿って、中央-地域間の迅速かつ正確な情報伝達を目的に、交通網を整備しました。一定間隔で、陸路/海路に補給可能な宿泊地を建設したのです。大陸の四方をつなぐ交通網は、安全な交易路として商人にも利用され、周辺各国との経済が活性化しました。この交易で、ドイツに印刷技術が伝わったのでしょう。 ここで、中世イスラム文化の、もう一つの窓口、イベリア半島に目を向けます。先に触れた、イスラム勢力による東ローマ帝国滅亡の一件は、フィレンツェでのルネサンス興隆を加速した一方で、西欧社会の海運交易に楔(くさび)を打ちました。地中海の制海権をイスラムが奪ったのです。もちろん海運が封鎖されたわけではなく、関税を払えば良いのですが、それは厄介です。ちょうどイベリア半島で、レコンキスタ(注4)の達成と重なったこともあり、必然的に、西欧南西端は、地中海から外洋に注目します。そうです。ここで「大航海時代(Age of Discovery)」の汽笛が鳴りました(※)。
外洋航行を可能にしたのは、イスラム文化から伝わった羅針盤と造船技術の向上です。初期には、航海術の未熟さから、遭難(そうなん)/難破/壊血病(scurvy, ビタミンC欠乏症)/感染症など、乗員の生還率が2割に満たぬ酷い有様でした。しかし、見知らぬ世界への闘志と投資が、社会を加速します。それに、生まれ育ちが悪くとも、勇気/体力/才覚、何よりも幸運があれば、一気に、王侯貴族を凌(しの)ぐ資産と栄誉ある立場を手にできます。「コロンブス(注10)」や「ヴァスコ・ダ・ガマ(注11)」といった、今に名を残す成功者たちは、未知なる大陸/新世界を垣間見せ、西欧文明の知識量が増大しました。
ルネサンスに大航海時代。15~16世紀における「広大な未知の世界」と「世界観の多様化」は、ヘレニズム文化の絶対性を揺るがしました。カトリック教会の、学術に対する宗教的統制が緩和したこともあり、ようやく、ヒポクラテスやガレノスを超える準備ができたのです。 と、中世の終わりが見えたところで、残念ながら、大幅に字数が過ぎてしまいました。この後の17世紀、革命的に自然科学が発展して、近代が始まります。続く18世紀には、西欧社会が産業革命からの工業化、医学/薬学も本格的に近代化して、19世紀には現代に突入します。ここまで来れば、もう一息。次回、完結編までお付き合いくださいませ。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||






